イキイキハツラツ
少し早めに梅雨入りした六月の朝、自宅で体重を測ったとき、発狂しそうになった。体重計は五十二・五キロと表示された。千夏がダイエットを開始してから二ヶ月、ついに目標だったマイナス十キロを達成した。
痩せたおかげで、服屋で試着するのが怖くなくなった。試着室を恐れず、お客様どうですかと聞いてくる店員を煩わしいと感じることもなく、カーテンをシャッと開けて堂々と立ったときに店員に褒められるのが当たり前になった。流行や好みの一切を投げ捨て、「着られる服」を選び続けてきた人生とサヨナラできた。着られる服とは、ファスナーが閉まらなくて悲鳴を上げずに済むウエストゴムの服であり、縫い目が裂けない服であり、関節を自由に曲げられる服のことである。今は何が流行りかをリサーチする楽しさ、自分の好みの輪郭をはっきりさせる喜びを知っている。メイクも髪型も、以下同文だ。
自分自身も変わった。千夏はトレーニングを通して姿勢が良くなり、自信がついたせいか、堂々と意見しやすくなった。その意見もまた、通りやすくなったと感じた。
周りも徐々に優しくなってきた。笑えるくらい、男性社員から話しかけられる頻度が高くなったのだ。千夏が着ていく服が変わったのもあるが、外見の変化を褒めてくれたり、何か運んでいると荷物を持つのを手伝ってくれたり、何かと気遣ってくれる社員が増えた。
セクハラは健在だが、その種類が変わってきた。以前のような底意地の悪いものから、褒め要素の強いものが増えた。
冗談にせよ、社長の亀石はよくデートに誘ってきた。総務部課長でセクハラ大王の生野ですら、天野さん、痩せて綺麗になったねと素直に褒めてくるようになった。見栄えにうるさいアートディレクターの長谷川は、千夏の着こなしを面白そうにファッションチェックをするようになった。
一方、女性社員からは上っ面の褒め言葉を大量にもらえるようになった。心から誉めてくれているのは掃除にくる美穂くらいで、それ以外は女にありがちな「よそよそしいくせに無駄にハイテンションで甲高い声」を出して誉めてきた。どうやって痩せたのかと理乃に聞かれたときは、面倒なので「食べるの減らして運動した」とだけ答えてやった。黒岩に聞かれた時は「黒岩さんの言うとおり、効率よくやった」と回答した。春菜からは別段、何も言われなかった。
冬馬もなんだかんだ言いながら、ときどきランチに誘ってくるようになった。だけど先日のように二人で行こうということはせず、必ず他の誰かと行くついでに誘われることばかりだった。千夏の予想では、「彼氏候補」が社内にいることは冬馬にバレているだろうから、二人きりになることを遠慮している様子だった。同じ部屋で働いているし千夏の方から気軽に誘えばいいのに、春菜の存在が気になって勇気を出せずにいた。寂しいときは、肌身離さず持っている似顔絵をこっそり見つめたり、ラジオのアプリ「ラジヨ」で「男の恋文選手権」を聞いたりして、想いを馳せた。
それでも総じて千夏は機嫌よく過ごした。小雨が降る朝、千夏は人に聞こえないくらい小さな声で鼻歌を歌い、いつも通り出社した。タイムカードを通し、自席の椅子に背筋を伸ばして座り、ダイエットスリッパに履き替えた。水筒の蓋を開け、温かい麦茶を飲んだ。五月雨式に入室してくる社員達に、おはようございますの挨拶を繰り返した。
イキイキハツラツしているのがおかしかった。つい最近まで、イキイキもハツラツも大嫌いだった。だけど確実に自分はそうなった。だから受け入れることにした。むしろ爽快だった。
とある平日の午後、千夏はいつも通りパソコンに向かい、メールを作成していた。
「千夏」
小さな声が近くで聞こえる。パソコンの画面から顔を離すと、正秋が向かいの机の前に立っている。本人がやけに神妙な顔をしているのが気になった。
「何?」
「クライアントから質問リストが飛んできてて。これ、回答してもらっていい?」
正秋は二つ折りにしたメモ用紙を千夏の前に差し出す。千夏が不思議そうに受け取ると、正秋は意味ありげに笑い、部屋の入り口へと向かった。
千夏はそのメモ用紙を開いてみる。ボールペンで書かれており、お世辞にも綺麗な字とは言えない質問リストだ。
質問1…好きな食べ物を以下に書きなさい。(複数回答可)
質問2…嫌いな食べ物を以下に書きなさい。(複数回答可)
質問3…食品アレルギーがあれば以下に書きなさい。(複数回答可)
質問4…カロリー制限または糖質制限している場合、一食に対する上限値を書きなさい。
質問5…食事会開催日について希望する日程を以下より選択しなさい。(複数回答可)
今夜・明日・明後日・明々後日
質問6…食事会に期待する雰囲気を以下より選択しなさい。(複数回答可)
ワクワク・ドキドキ・ゆったり・静か・賑やか・明るい・暗い
上記全てに回答後、このメモ用紙を持参したクライアントに直接返却すること。(電話及びメール返信厳禁)
千夏は黙読しながら吹き出しそうになる。長々と質問が書かれているが、要はデートの誘いだ。どうせならこれが正秋でなく、冬馬だったらいいのに。そう思いつつ、沙耶香の言葉が頭の中に響く。千夏はボールペンを手に取り、回答を書き込んだ。




