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薄紫

千夏は箸を置き、手を膝の上に置いた。


「春菜とはここに来るの」

「まだ誰とも来たことないよ」

冬馬は何でもなさそうに言う。

「この間はどういうところでランチしたわけ」

「なんかフランスの家庭料理みたいな、そういう店」

「あー、そこの角、曲がったところの店?」

千夏が窓の外を指さすと、冬馬が頷いた。


「そう、そこ」

「で、どうだった。若い美女二人に囲まれた食事は」

千夏は春菜と理乃を思い出し、目を細めて尋ねる。

「別に。普通」

冬馬は面倒臭そうだ。

「えー。三十代のおねーさんにもっと聞かせてごらんよ」

二十代と距離をとって話を聞きたいときには、わざと三十代、を強調して言うのが千夏の癖だ。

「だったらお前もくればよかったじゃん」

「あー、いいの、いいの。ああいうテンション、苦手だから」

千夏は吐き捨てるように言うと、冬馬がおかしそうに笑い始めた。


「俺も理乃さんは苦手だって思った」

「どのへんが?」

「元彼の話になって、こういう男はダメっていうのを百人分くらい聞かされた」

冬馬はまるで不合格の烙印を受けたかのように、悲壮感たっぷりな顔してみせる。

「ハハハ。あの子なら言いそう」

「その点、天野先輩は気楽に付き合えていいですねえ」

「でしょ。もっと敬って」

千夏は偉そうに座椅子に寄りかかり、足を少し崩して横に流す。と、太ももにわずかな毛の剃り残しを見つける。千夏は慌ててスカートの裾をグッと下ろす。

「それで、ダイエットして、新しい男は捕まえられたんですか、先輩」

冬馬は挑戦的に笑う。千夏はムカッとして、お猪口を握りしめる。捕まえたいのはお前だ。千夏は多めに蕎麦をお猪口にぶっ込み、勢いよくすする。


「うん。まあ、候補をね」

モゴモゴしながら千夏が答えると、冬馬はわざとらしく眉毛を上げる。

「へえー、彼氏候補? デートはしたの」

「したよ」

「どこ。誰」

「海が見下ろせて。綺麗で。高いところ」

千夏は観覧車から見下ろした横浜の夜景思い出し、言葉を区切りながら言う。正秋に頬や額にキスされ、抱き寄せられた記憶が鮮やかに蘇る。目の前には冬馬がいると、なんだか裏切ったような気持ちがする。そんな自分に酔いしれ、思わず恍惚としてしまう。冬馬はそんな千夏を見てニターッと薄笑いを浮かべ、くすくす笑い出した。


「なんか、やーらーしー。キスした?」

「当たり前でしょ。大人なんだから」

口同士ではないが、キスはキスだ。千夏はムキになっている自分を野放しにする。

「それ以上は?」

「それも当たり前」

「当たり前に何をしたの」

「男女のそれです」

ヤキモチを妬かせたくて、自分でも驚くほど滑らかに嘘が飛び出す。千夏は自分の言葉に動揺しながら、再びそばを多めにお猪口に入れ、つゆをつける。そばが多すぎて汁が溢れた。

「付き合う前に確認事項は色々あるからね。俺より上手かった?」

冬馬は急に色っぽい目つきをしてくる。千夏はおしぼりでテーブルを拭こうとしてお猪口を倒す。冬馬は笑ってお猪口を立て直し、自分のおしぼりを千夏に手渡す。


「その話、蒸し返したいの」

千夏は目を逆三角形にして睨み、畳に溢れた分もおしぼりで拭く。

「ごめん」

「全然、初対面の設定になってないじゃん」

千夏は拭くのをやめ、座り直す。冬馬は頰をかいて軽薄に頭を下げる。さらに、息を深く吐きだす。

「楽しそうで、いいなと思って」

「何が」

「俺も青春したいな」

「してんじゃん」

春菜に堂々とアプローチしといて、どの口が言う。千夏はいっそうムカムカして、もう半分のトウモロコシの天ぷらを割り箸で突き刺す。それは冬馬の分だったようだが、冬馬は面白がって何も言わない。千夏はもぐもぐと天ぷらを咀嚼する。


「全然だよ。それでどんな男?」

冬馬は身を乗り出し、目をキラキラさせて尋ねる。

「超ーー。いい男。優しくて思いやりがあるし、可愛いとか綺麗とか、たくさん褒めてくれるの。以上」

千夏はそう言って勝ち誇り、自信満々に巻き髪を振り払う。

「誰それ」

「教えません」

「会社の人?」

「ノーコメント」

ノーコメントはイエスと同異議だと、言いながら千夏は自分自身に突っ込む。

「つーかさ。彼氏とデートじゃないとき、俺とも遊ぼうよ」

冬馬は唐突に、あっけらかんとした物言いをする。

「は? 遊ばないし」

「言い方、間違った。彼氏になるご予定の方に遊んでもらえないとき、俺とも遊んでよ」


千夏は耳を疑う。冬馬は何がやりたいのか。私に目を向けてる暇はないはずだ。

「なんであんたなんかと──」

「そろそろ行こう、昼休憩終わる」

冬馬が腕時計を見て話を遮る。千夏は描いてもらった似顔絵を手にとり、席を立つ。


会計が終わり、冬馬と店を後にした。

「さーて。午後からまた仕事、仕事」

青空の下で冬馬は両腕をグッと伸ばし、首を回しながら歩く。そのとき漏れ出た声がたまらなくセクシーで、千夏は胸がキュンとする。それに、並んで歩くと、デートしているようでドキドキしてしまう。腕を組めたらいいのに。抱き寄せられたらいいのに。


二人はオフィスビルに着き、玄関ドアをくぐり、エレベータに乗る。冬馬は七階まで行くらしく、七階と、制作部がある六階のフロアボタンを押す。

「あのさあ」

「何?」

「薄紫。いいじゃん」


薄紫。はて。千夏はなんのことか分からず、六階で降りる。エレベータに残っている冬馬は、こちらを見てニタリと笑い、手を振る。千夏はハッとして赤面する。

「ちょっと」

食ってかかる前にドアは閉まる。千夏は今日履いてきた下着を思い出し、思い切りスカートの裾を下に引っ張った。

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