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初対面ってことにして

入社式が終わり、社員達は会議室から出ていった。千夏はわざと部屋を退出するのを遅らせ、遠巻きにチラチラ見た。冬馬は他の社員達とあれこれ話していた。話しながら戸口にゆっくり向かっているので、自分もその歩調に合わせてオフィスを出た。エレベータホールに出ると、冬馬は正秋(まさあき)と並び、エレベータを待っていた。


正秋こと安田正秋は、千夏の同期で同い年だ。大学を卒業して入社した当時、同期入社した社員は千夏を含め、全員で六人いた。だけどそれぞれ結婚したり転職したりと、会社を去った。残されたのが正秋と千夏だけで、正秋はこの春、営業部の主任から係長に昇進した。


背丈は百七十センチほど、ダークブラウンの髪はショートヘアで、長くて重めの前髪は横に流している。卵型の顔に瞳はつぶらで子犬のようだ。鼻は小さく口は少しぽってりしていて、そこに存在感のある黒縁でスクエア型のメガネをつけている。

千夏は首から下を見る。淡いブルーのワイシャツは洗濯のりが効いてパリッと仕上がり、その上に濃い青のネクタイとネイビーのスーツジャケット、パンツを着て、よく磨かれた黒い革靴を履く姿は清潔感がある。千夏は素直に素敵だと思うし、同期として誇らしい気持ちにもなる。


だけど今、興味があるのは正秋ではない。冬馬だ。三年前と違って髪色は黒く、センター分けでスパイラルパーマがかかっている。真っ白のワイシャツに深紅のネクタイ、黒いスーツジャケット、パンツを着て、同じく黒い革靴を履いている。どちらかというと個性的な人種が多いデザイナーというよりは、正秋と同じく営業マンのような爽やかな見た目だ。雰囲気も少し明るい感じがしたが、思い切って話しかけてみる。


「久しぶり」

その声を浴びた冬馬の顔は妙だ。驚いた様子もなければ、嬉しがる様子も、怒った様子も、困った様子もない。完全に「無」だ。千夏はどうしたらいいか分からず、手を振ったことを半ば後悔しつつ、じっと見上げることしかできずにいる。

「知り合い?」

正秋が目をぱちくりさせ、冬馬と千夏を交互に見る。

「えーっと、すみません。どちらでお会いしましたでしょうか」

冬馬の無情な声がホールに響く。


何だと。今、耳に届いた言葉は幻聴か。耳鳴りか。この男は今、なんと言った。私を知らない人間扱いしなかったか。

千夏はしばし考える。あの頃、冬馬とは毎日メッセージのやりとりをして、なんでも語り合ったものだ。会ったのは確かに一回だけだが、本当に覚えていないということがあるのだろうか。いいや、そんなの嘘だ。嘘に決まってる。でも、だとしたら何なのか。どういうつもりか。


千夏が呆然としているところ、エレベータの扉が開く。

「千夏。乗れよ」

冬馬とともにエレベータに乗り込んだ正秋が、手を振って呼び寄せる。千夏は正秋が視界に入らない。何よりも冬馬に目が釘付けだ。冬馬は狐につままれたような顔をして、それ以上一言も発さない。

「ああ、女子トイレ行くから。先、行って」

千夏は先に行くよう手を振り払い、エレベータに背を向けると、痛む足を引きずり、女子トイレに向かって歩く。


バカ。バカ。バカ。自分は何を期待していた。なんで挨拶なんかした。何がしたかった。何をされたかった。千夏は個室で用を足しながら、頭を掻きむしる。自分に腹が立つ。愚かさを呪う。今すぐさっきのやり取りを抹消したい。なかったことにしたい。個室から出て手を洗い、鏡の前にいる自分自身にガンを飛ばす。それからドアを開けようとすると、唐突にドアが手前に開いた。


「ちょっと」

千夏は死ぬほどびっくりして叫ぶ。目の前にいたのは、よりにもよって冬馬だ。

「シー。静かにしろよ」

冬馬はそう言って千夏の口に手をあてる。千夏は何をされるのかと身構え、目を白黒させる。

「ここ。女子トイレ」

「分かってる。でもここってほとんど人、来ないんだろ」

冬馬の言葉に、千夏は確かに、と頷く。七階は社長室と会議室、応接室、資料室があるだけで、社員達はほぼ出入りしない。冬馬は千夏の口元から自分の手を離した。かといってなぜ、今ここに冬馬がいる。千夏は軽くパニックを起こしてしまう。


「俺とは初対面ってことにしとけ」

冬馬の言い方はつっけんどんだ。

「なんで」

少し気持ちが落ち着いてきたものの、千夏には意味が分からない。

「バカ。マチアプで知り合いました、なんて言えるか」

冬馬が切れ長の目をさらに細め、鋭い声で言うと、千夏はますます顔をひきつらせる。

「そりゃあ、そうだけど」

「お互いマイナスイメージしかねえだろ。お前、安田さんの前でなんて言うつもりだったんだよ」

「えーと。何にも考えてなかった」

千夏は正直に言った後、少し赤面する。冬馬は呆れた様子で首を傾げ、ため息をつく。

「ほらな。それと、その足と手、どうしたよ」

「あー。道で、転んだ」


敢えて、突き飛ばされたとは言わない。鈍臭さに拍車がかかりそうだと思ったからだ。悔しそうに顔をしかめる千夏に、冬馬は一瞬黙ったのち、肩を揺すって笑いはじめる。千夏はそれを見て腹が立ってきた。


なんだ、この男は。偉そうだし感じ悪いし、前に会ったときとずいぶん様子が違う。前はもっと影を背負ってる感じで、優しくて思いやりがあった。今、目の前で笑っている男は太々しくて優しさがない。人を小馬鹿にしている。千夏は冬馬を押しやり、トイレから出ようとする。

「待てよ」


冬馬が腕を掴む。千夏は驚きと怒りを交えた顔で振り返る。冬馬はスーツジャケットのポケットから消毒液と絆創膏、湿布を取り出し、洗面台の上に置く。

「どうしたの、それ」

千夏がそれらを訝しそうに見つめる。

「総務部でもらってきた」

「なんで分かったの」

「びっこ引いてたじゃん。手のひらもケガしてんの、見えたし」


冬馬が千夏の手足を見ながらよどみなく言うと、千夏は感心して頷く。

「え。ここで手当てすんの」

「他の人が見てる前でもいいけど」

「やだ。ここでお願い」

「じゃあまず、手を洗え。足は俺がやる」


千夏は洗面台に寄りかかり、ぎこちなく手を洗う。冬馬はティッシュを水で濡らし、それを足首にあて、土汚れと血液を拭き取る。それから箱から消毒液を取り出し、新しいティッシュに染み込ませる。それを手と足首にポンポンとあてる。冬馬の温かい手に触れられ、千夏はにわかにドキッとした。


「あーあ。膝もケガしてますよ、お嬢さん」

「ちょっと、スカートめくんないでよ」

千夏はスカートの裾を奪い取る。

「別にいいだろ、今さら。全部見てるし」

なんという男か。今になってあのときのことを持ち出すとは。確かにお互い、全部見ている。千夏は頭にきて、かがんでいる冬馬の頭を力任せにひっぱたく。

「いってー。何すんだよ」

「私とあなたは初対面です。何も見てない、知らない」

「あー、そうだったな。でも膝は出せ」


冬馬が急に鋭い目つきで千夏を射抜く。千夏はびっくりして上体を引く。そんな千夏に構わず、冬馬は消毒液をティッシュに染み込ませていく。それから再びスカートをめくりあげ、千夏の膝を左手で支えると、右手でティッシュをポンポンとあてる。さらに絆創膏を貼る。

千夏は複雑な気持ちになる。嬉しさと悔しさが交錯して、何も言えない。


「よし。オーケー」

冬馬が立ち上がり、手を差し出す。

「何?」

千夏は差し出された手をじっと見つめる。

「ふらついてるから。ほら」

冬馬はまだ手を差し出し続ける。千夏はもじもじしながら、冬馬と手を繋ぐ。


七階の廊下には誰もいなかった。そのまま二人はエレベータに乗り、六階へ降りた。

「あれー、どうしたの、二人」

冬馬が支えるように千夏を連れてきた様子を見て、男性社員が声をかける。

「はあ、ちょっと天野さんが、俺の目の前でいきなりコケて」

なんだ、その言い草は。冬馬の言い方に、千夏は少し驚く。

「足、くじいたんですか。痛そう」

今度は女性社員が、千夏の足首を指さして言う。


「ええ。ちょっと」

千夏は冬馬に自席に座らせてもらいながら、恥ずかしくなってモゴモゴ言う。

「天野さん、鈍臭い二十代は可愛いけど、鈍臭い三十代はダサいですよ。おまけにそのダサい腕時計、なんのつもりなんですか」

冬馬はいきなり千夏の服の袖をまくる。皆は何ごとかと千夏の前腕を見る。サーモンピンクのベルトの、「ぷるきゅあ」のデジタル時計が肉に食い込んでいる。

「はっはっはっ。三十代でぷるきゅあは確かにイタい」

男性社員達が笑う。千夏は冬馬が座っている方を睨みつけると、パソコンに目を戻し、仕事に取り掛かった。

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