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横浜みなとみらい

翌日、土曜日の朝のことだった。午後から正秋と会う約束をしていた千夏は、自宅の押し入れを開け、腕を組み、真面目に思案していた。

長い思案の結果、美穂やダンスサークルメンバー達の意見に従うことにした。痩せ始めてから買った服で、上はUネックの白いシンプルなTシャツ、下は薄色のワイドデニムパンツ、靴はマットな質感のベージュのミュールを選んだ。ダイエットのおかげで腹の肉は引っ込み、千夏は鏡を見て少しホッとした。


正秋と待ち合わせしたのは横浜中華街だった。正秋が下調べしたらしい四川料理の店に入り、二人は窓際の席から外の様子を眺めた。中国人達が熱心に呼び込みし、日本人の観光客達がそれぞれの店に入っていくのが見えた。


「何がおかしいの」

千夏は怪訝な顔をしながら正秋を見つめる。今日の正秋の私服もなかなかカッコいい。ダークグリーンのサラッとした感じの七分丈のシャツに、アイボリーのパンツと白いスニーカーを合わせている。その正秋は千夏の皿を見ながらくすくす笑っている。

「いや、徹底してるなって」

正秋は皿を指差す。そこには千夏が切り分けた鶏皮がある。


「うん。まだ目標まで到達してないし」

「目標って?」

「あとマイナス三キロ」

「今は何キロ」

「企業秘密です」


千夏はバクバクと鶏肉を食べる。そんなに食べないようにしようと思っていたのに、メニュー表にデカデカと載っていた棒棒鶏(バンバンジー)に完全に意識を持っていかれた。そういえば最近は鶏胸肉自体はよく食べるものの、こういう刺激的な味付けのものは食べていなかったと千夏はふと思い出す。思い出したせいで余計に空腹を感じてしまう。よくある中華のファミレスと違い、本格的な豆板醤や四川風辣油、焙煎したらしい胡麻でパンチが効いていて、尚更美味しい。


「ダイエットなんかしなくても今のままで十分、魅力的だよ」

「そうかな。私はもう前の体重に戻りたくはない」

「うん。頑張ったよね。でも、それ以上、無理して痩せようとしなくてもいいよ。綺麗だし可愛いし」

「うん」

繰り返し褒めてくるので千夏は照れて目を逸らす。脳内が激しくおしゃべりを始める。

なんだ、この甘々な状況は。正秋が彼氏で、自分はその彼氏にチヤホヤされている彼女のようではないか。そう思うならどうして今まで、自分にアプローチしてこなかったのか。十年間もただの同僚だったのに。口の中の鶏肉をモゴモゴさせ、グラスの水を飲んだ。チラリと正秋を見ると、急に身を乗り出し、口を千夏の耳元に近づけてくる。


「キスしたい」

千夏は激しくむせた。正秋が差し出す紙ナプキンで口元を被い、咳が治るのを待つ。

「ごめん。ついうっかり、本音が」

正秋は楽しそうに笑う。

「私、ご飯食べたら山下公園、散歩したい」

千夏は話をそらし、窓の外を指さす。

「了解。どうぞ」

正秋は水差しを手にとり、千夏のグラスに水を注いだ。千夏は口を尖らせて見つめる。余裕たっぷりの正秋に負けていて悔しい。それに今日はピュアさが少ない。随分と積極的だ。


食事を終えた二人は店を出て、朝陽門(ちょうようもん)から中華街を出た。そこからマンションやオフィスビルがある通りを南下し、山下公園の入り口にたどり着いた。


山下公園は今も昔もデートスポットだ。中華街よりも若いカップルが多く、どこを見回しても写真を撮って笑うカップルが最低一組はいる。手を繋ぐカップルもいれば、白昼堂々キスをしているカップルもいる。千夏はちらりと隣の正秋を見る。

「最高の天気だね」

正秋が目の上に手のひらをかざし、あたりを見渡す。千夏も同じように見る。頭上に広がる空はこれ以上ないほどに深く、濃い青だ。薄くて細い雲は遠くにわずかに浮かぶ。滑空するトンビがピイーヒョロロロと景気よく鳴く。目の前には横浜港と、少し先にはベイブリッジが見える。

「うん」

「ねえ、ちょっとそこに立って」

「うん」

千夏がバラのアーチの前に立つ。ちょうどピークなのか、園内のバラはあちこちで咲き誇っている。千夏はそばに咲いている深紅のバラに目を奪われたが、正秋の声がけでカメラの方を見る。正秋は写真を撮り、それを千夏に見せる。

「ほら、どうよ」

「どうって?」

バラを背景に、千夏がはにかんで立っている写真がそこにある。

「今日からこれが、俺の待受画面だから」

正秋が屈託なく笑うので、千夏は反応に困り、適当な方を指差す。

「あっち、いこ」


常時横づけされている氷川丸の前を通り過ぎようとしたとき、背後から子どもたちが笑いながら二人を追い越してゆく。子ども達の一人が、足を取られて勢いよく転ぶ。正秋がすぐ駆けつけて手を差し伸べ、起きるのを手伝ってやる。その子は小さくありがとと言い、他の子ども達のもとへ駆けていく。


二人は散歩を続けた。海沿いの道を歩き、赤レンガ倉庫の中をぶらつき、ワールドポーターズの中にある雑貨屋に入った。

「ねえ、コスモワールド行こうよ」

正秋は柔らかそうなぬいぐるみをもてあそびながら、すぐ隣にある遊園地、コスモワールドの方を指さす。

「えー。この歳で? アトラクション乗りたいの?」

「そうだよ。二人とも、えーと…小学二十六年生だけど」

とっさに計算する正秋に、千夏は吹き出しそうになる。

「何それ。単なるおじさんとおばさんでしょ」

すぐそばで動物のカチューシャをつけて笑い合う高校生らしいカップルを見て、千夏は少し切なくなる。あの年頃のとき、自分には彼氏なんかいなかった。その後もずっと。

「千夏はなんでも年齢を引き合いに出すんだね」

「だって」

「年齢なんて誰も気にしないのに」

正秋はぬいぐるみを千夏に抱っこさせて笑う。千夏は困りながらも、それもそうだと思ってぬいぐるみをギュッと抱きしめる。それに、笑った正秋の顔が少年のように見える。それがやけに可愛いと感じた。

「分かったよ」

千夏は正秋とともに、雑貨屋を出た。


コスモワールドのアトラクションは思いのほか楽しめた。正秋とはジェットコースターにも急流すべりにも乗ったし、お化け屋敷にも入った。そのたび、二人ともキャーキャーワーワー、叫び倒した。ゲームコーナーではクレーンゲームやレーシングゲームを楽しんだ。

千夏はすっかり疲れてベンチに座った。靴ずれしてしまい、かかとが痛んだ。ミュールじゃなくてスニーカーにすればよかったと肩を落としているところ、正秋が紙カップのドリンクを買ってきた。ストローに口をつけると、ノンシュガーで氷抜きのアイスティーだった。ダイエッターの気持ちを分かってるねと千夏が褒めると、正秋はにっこり笑い、さらに絆創膏を見せた。千夏はちょっと感動して礼を言うと、正秋が靴を脱ぐように言い、絆創膏をかかとに貼ってくれた。


あたりが暗くなってきた。

「今日、楽しかったねー。もう帰ろうか」

千夏が空を見上げて言う。西の空が、オフィスビル群の輪郭をオレンジ色に染めているのが見える。そんな千夏を見て正秋はくすくす笑いだす。

「暗くなる前に帰るとか。小学生じゃあるまいし」

「だって。今日、昼から会ってるんだよ」

靴ずれ以前に、体力的に限界だ。前日もオシアスのルームランナーで十キロ走ったから、足がガクガクなのだ。

「最後にあれが乗りたいな」

正秋が指さす方向を見る。みなとみらい名物、観覧車「コスモクロック」があり、千夏は少しだけ身構える。

観覧車は密室だ。だけど、正秋は相変わらず、少年のように屈託なく笑い、ねえ、とさらに手を強く引いてせがむ。自分のことを大切に思ってくれているであろう正秋は、それを台無しにはしないはずだ。千夏はそう言い聞かせ、正秋と観覧車乗り場へと向かった。

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