揺れる電車
夕食をゆっくり楽しんだ後、二人は帰路についた。
「完全にお好み焼き臭がしてるね、うちら」
電車に乗って吊り革につかまりながら、千夏は笑いかける。隣に立つ、少し背の高い正秋はこちらを見下ろして微笑む。
「迷惑だよな」
「パパありがとう」
千夏はふざけて笑うと、正秋はまた嫌そうな顔をする。パパ、が気に入らないらしい。
「ねえ、褒めてるんだよ。正秋ってさ、きっと結婚したら頼もしくて、子煩悩で、すごくいいパパになると思う」
千夏はそう言って、中途半端につくり笑いをする。
「結婚…」
正秋はそう言うと、千夏をじっと見つめる。千夏はその顔にビクッとして、思わず見つめ返す。電車が減速し、停車した。乗降客が出入りするのを視界の隅で確認しつつ、千夏は正秋と目を離すタイミングを失う。電車は停車前よりも混雑し、他の乗客に押されて、二人の距離はぐっと近づく。後ろに倒れそうな千夏を、正秋が片手で背中を支える。
「ねえ、正秋は結婚するなら奥さんにどうしてほしい?」
正秋との顔の距離は三十センチあるかないかだ。気まずさから逃げ出すように、千夏は不自然なほど明るく尋ねてみる。
「どうしてほしいって、何が」
「ほら、色々あるじゃん。理想の奥さんだよ」
「理想か…」
正秋はそれ以上、何も言わない。代わりに、さらなる混雑でよろめいた千夏の肩を引き寄せる。
「ちょっと」
千夏は正秋の腕のなかで眉間にシワを寄せ、怒りと困惑を滲ませる。だけど正秋の手が鎖骨に触れたとき、そのざらついた感じ、湿度のある温もりに心地よさを感じてしまう。
「だってフラフラしてるから」
正秋はそう言い訳して、千夏の肩から手を離す。代わりに一方の手で空いた吊革を掴み、他方の手で千夏の手を繋ぐ。
「こら」
千夏は繋がれた手を凝視し、勢いよく振り払う。
「手繋ぎ、ダメ?」
「ダメだよ」
「考えてもみて。子どものとき、男の子と手、繋がなかったの」
正秋に真面目ぶって言われて、千夏は吹き出す。そんなの、繋いだに決まってる。子どもの時代は何でもありだ。
「繋いだよ」
「じゃあ別に、手繋ぎってモノ自体、恋人達の特権じゃないよね」
正秋は再び手を差し出す。千夏は言いくるめられた感を拭えないまま、しぶしぶ手を差し出すと、正秋がその手をガッチリとらえる。
千夏は窓の方に目をそらす。闇夜のなかでいくつものビルの明かりや、走りゆく車のライトが左から右へ流れていく。その頭の中では、絶え間ないおしゃべりが始まる。
正秋は私の気持ちを知っている。冬馬のあの顔が、冷たそうな目が、長い指が。私は途方もなく好きなんだ。どんなに正秋に優しくされても、気持ちは変わらない。まだ。
「まだ」と付け加える自分自身に、千夏は驚く。ということは、正秋が時間をかけて向かい合ってくれたら自分の気持ちは変わるのだろうか。変わりたいと、願っているのか。
いや。どちらかというと、自分は現実逃避したいのだ。好きな男が他の女を追いかけている現実から。敗走している自分の目の前にタイミングよく現れたのが正秋だったのだ。まさに捨てる神あれば拾う神ありだ。ただ、それだけのことだ。
正秋は千夏の耳元に口を近づける。
「さっきの質問の答え。俺の理想の奥さんは、目の前にいるよ」
その甘い囁きに、千夏はすぐさま赤面し、足がすくんだ。それを察するかのように、正秋は千夏の手を握る力を強める。その手の温もり、心地よさに、抗うことはできそうにない。
「ねえ、正秋」
千夏は、自分の横顔を正秋に見つめられているのを感じつつ、問いかける。
「うん?」
「お好み焼き。また焼いてね」
千夏は窓の外を見たまま、小さな声で言う。
「うん」
正秋はそう言って、千夏と自分の小指を結ぶ。指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます、の動きをしてみせた。
正秋とは電車のなかで分かれ、千夏はアパートを目指して歩いた。駅前の商店街を抜け、大通りを歩き、いつもの歩道橋に差し掛かった。そのとき、バッグの中でスマートフォンがバイブした。誰かからメッセージが届いたようだった。
階段を上りながら、千夏はスマートフォンでメッセージの会話画面を開いた。発信者は、正秋だった。
『恥ずかしくて言えなかったからここで言う。今日の服、すごく似合ってた。最高に可愛い。大好きだよ。おやすみ』




