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処女喪失

正面に立つ冬馬を見て、千夏の胸を早鐘が打った。


忘れもしない、三年前のことだった。自分が三十歳の誕生日を迎える一ヶ月前、仕事上がりにファーストフード・マケドナルドに入った。ブレンドコーヒーをオーダーし、スティックシュガーを四本投入し、マドラーでぐるぐるかき混ぜた。窓からは夜道を歩くカップル達の姿が見えた。手を繋いだり笑い合ったり、どのカップルも幸せそうだった。なんとも言えない虚しさが湧き起こった。


千夏は男性と付き合ったことがなかった。彼氏いない歴、イコール年齢だ。肉体関係を持ったこともなく、処女のまま二十九年間生きてきた。誰からも女として認められず、これからもずっとそうやって生きていくしかないのかと思うと打ちのめされ、自己憐憫に陥った。なんとかして、そんな自分に終止符を打ちたかった。


ほぼ衝動的に、千夏はマッチングアプリに登録した。年齢の記入欄に二十九と打つと、こうやって打てるのも今だけなんだろうなと、切なさを覚えた。若さは貴重だと思った。どんなに年齢は関係ないと強がったって、男達は若い女に群がるのを、それまで何度となく見てきた。それは本能だし、自分が男でもそうなんだろうと察しがついた。だから三十代の男が声をかけてくれればいいと思った。誰でもいいから、自分の処女をもらって欲しかった。


千夏はプロフィール欄に顔写真を載せた。年齢もそうだが、顔写真掲載は義務ではない。だけど、会った途端に「プロフ詐欺」と思われるのは耐えられそうになかった。なので、正直に載せることにした。無加工の、そのまんまの写真だから、自分で言うのもなんだがいかにも「彼氏いたことありません」な女だと思った。載せているユーザーは少なかった。それ以外の個人情報は伏せ、男性経験ゼロです、とだけ書いておいた。


二十代前半の冬馬とマッチングしたのは予想外だった。他に三十代、四十代もいたが、誰にも「いいね」ボタンをタップできなかった。なぜか冬馬はプロフィールを見ただけで信用できた。冬馬は顔写真を載せておらず、うさぎの写真を載せていた。信用するに値したのは、そのプロフィール欄だった。

『バツイチです。子どもはいません。女性との接し方を勉強中。前向きでともに成長できる女性がタイプです』


外見のタイプではなく、内面的なことを書いているところに、千夏は共感できた。接し方を勉強中、というところにも好感を持てた。他のユーザーは上半身裸で筋肉ムキムキぶりを披露していたり、車好き、アウトドア好き、料理好きなことや酒の銘柄に詳しいことをアピールしていたりで、自信過剰な感じや、女慣れしている感じが嫌でも分かった。なので、冬馬に連絡をとってみることにした。


メッセージのやり取りは当初、一日一往復のみだった。職業を伝えあったところ、意外な共通点が見つかった。冬馬はデザイナーで、千夏も普段からデザイナーと仕事をしているから、そこから会話が発展した。だんだんとメッセージの頻度が高くなり、やがて一日に何十通も往復するようになった。お互いに陰キャで、かつ直球でモノを言うので、千夏はそれを面白がった。


こちらだけ顔写真を見せていて、向こうからは見せてもらえていなかったが、この際どうでも良かった。きっと自信がないのだろうし、それはお互い様だ。日々、思うことを好きなように話した。自分が処女で、早く捨てたいと思っていることも伝えた。冬馬は、俺で良かったらと言ってくれた。

メッセージのやり取りが一ヶ月ほど続いたのち、二人は会うことになった。


当日になった。

待ち合わせ場所に冬馬が颯爽と現れた。想像のはるか上をいき、千夏は心底驚いた。背が高くて若々しく、年齢は二十四と聞いていたから、その通りなんだろう。

ダークブラウンの髪はセンター分けで、後頭部を刈り上げている。顔は少し面長で、太く凛々しい眉と、やや切れ長で野生的な目が特徴的である。鼻は高く唇は少し大きくて薄い。痩せ型の体によく似合う白いバンドカラーシャツとデニムのワイドパンツを着て、グレーのスニーカーを履いている。

カッコよすぎてまぶしくて、直視できない。まるで青空を切り取ってきたような、爽やかすぎるイケメンだ。


千夏は胸のドキドキをおさえ、身長はいくつですかと聞く。百七十八という答えと、そのやや攻撃的な目つきからは予想外の、優しそうな笑顔が返ってくる。その笑顔がとても可愛い。


一方、千夏は長い黒髪をコテで巻き、メイクは濃いめに仕上げた。服はクリーム色のざっくりしたカーディガンをワンピースに合わせている。大花モチーフだが控えめなモノトーンで、年齢相応かなと、スカートの裾を軽くつまみながら思う。靴はシンプルなベージュのパンプスだ。朝に計量したら体重が六十キロジャストだったことと、出発前に全身鏡に映る自分が、白い布切れをまとっているビヤ樽に見えたことを思い出し、急激に自信をなくす。


二人は待ち合わせ場所から大通りを並んで歩く。千夏は周りの目が気になった。通行人の女子達がちらちらと冬馬を見ては耳打ちし合うのを、何度となく見る。千夏はこっそり冬馬を盗み見る。冬馬は堂々としていて、まったく気にしてない様子だ。


待ち合わせ場所近くのダイニングレストランに、二人は並んで入る。奥のテーブル席を案内され、向かい合わせで座る。冬馬は会話上手で、千夏はずっと笑い続ける。だけど頭の中はずっとパニックで、会話の内容は右から左だ。オーダーした料理が運ばれてきた。アボカドは好きか、スナップエンドウは好きかなど、冬馬がサラダを取り分けながら細かく聞いてくる。千夏もそれに丁寧に答え、下手くそに笑う。


どう見ても不釣り合いなのに、冬馬はこちらの外見を嫌がる気配はない。それどころか、じっと千夏を見ては微笑む、を繰り返してくる。千夏は顔から湯気が出そうだ。嬉しいけれど、その倍くらい恥ずかしい。こんなにカッコイイ男の子と同じ時間を共有するのは間違ってる。なぜマチアプなんかやっているのだ。やる必要がないだろう。千夏は脳内で自分をビヤ樽、ビヤ樽と卑下しながら、冬馬の外見を熱烈に褒める。すると冬馬は笑顔を引っ込め、目を細めた。

「食べ終わったよね。行こう」

冬馬に手を取られ、ラブホテルの入口をくぐった。


初めて入るラブホテルの受付を見渡し、千夏の心臓は早鐘を打つ。薄暗い空間のなか、目の前に各部屋の写真パネルが碁盤目状に並び、バックライトで光っている。緊張してるの、と冬馬が尋ねる。千夏は握られた手から汗が噴き出しているのを感じながら、うん、と正直に答えると、冬馬は自分の肩を抱き寄せる。

どの部屋がいい、と冬馬が聞く。千夏はドキドキしながら指をさすと、冬馬はその部屋のボタンを押し、部屋のキーを受け取る。千夏は怖くなり、唾を飲み込む。冬馬に手を引かれ、エレベータに乗った。


部屋に入り、千夏は必死で頭を回転させる。ついに男性とホテルにきてしまったと、頭の中の自分が連呼する。まず、何をすべきか考えた。最初にシャワーを浴びるべきだろうと、これまで頭に蓄積してきたデータを引っ張り出す。それから浴室のドアの取手を掴む。中に入ろうとしたら、後ろから冬馬が抱きしめた。千夏が驚いて振り向いた直後、唇が重なった。冬馬の熱い舌がにゅるりと滑り込んでくる。千夏の目の前がぼやけ、意識が飛んだ。


それから後のことはよく覚えていない。ただただ、冬馬が自分をベッドに寝かせ、とても優しく、労わりながら抱いてくれたのは覚えている。痛かったけど、だんだんその痛みを忘れた。嬉しさが勝った。誰かに必要とされていると思えたし、自分の中に眠っていた「女」が目覚めたのにも気づいた。今までの自分とおさらばできて、爽快な気持ちだった。


千夏はベッドの上で横向きになり、冬馬に抱きつきながら、どうして私なんかと会ってくれたのかと尋ねた。冬馬は千夏の背中を支えながらもう片方の手で髪を撫で、頭に自分の顎を乗せた。千夏が良かったからと、冬馬は囁いた。


その言葉が聞きたかった。千夏は目にじんわり涙を浮かべ、唇をかんだ。だけど一つ、問題があった。自分は冬馬が好きになってしまったのだ。女は抱かれると簡単に男を好きになるとはいうけど、まさにその通りだった。自分たちは外見のレベルが違いすぎるし、釣り合っていないのは百も承知だった。だけど、そんな思いはあれよあれよという間に頭の隅へと転がり、都合よく雲散霧消した。冬馬を独占したい、付き合いたい、むしろ、彼女として釣り合うためにどんな努力だってする、いい女になってみせる。そう誓った。誓ったのに。


翌日、千夏がメッセージを送っても、返信はなかった。三日待っても一週間待ってもないし、電話をかけてみても繋がらなかった。冬馬とは、完全に音信不通となった。


千夏は我に返った。会議室では、社長が一人一人に挨拶をさせた。千夏は焦点を会議室の前方に合わせた。スーツ姿の冬馬はビジネスライクな笑みを浮かべ、社員を見渡した。

「このたび制作部に配属となりました、デザイナーの杉崎冬馬(すぎさき とうま)と申します。よろしくお願いいたします」

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