このやろうこのやろうこのやろう
正秋のことをぼんやり考えつつ、千夏が帰社すると、三階の制作部では怒鳴り声が響いていた。どうやら春菜が何かをやらかしたらしく、本人は社長の亀石の前に立ち、完全にフリーズしていた。春菜を挟んで立っているのは冬馬と住谷で、住谷が何か弁解しているようだが、火に油を注いだらしい。亀石にますます怒号を浴びせられていた。千夏は黙って自席に座り、業務に戻った。
なんでも、長い付き合いのあるクライアントから、春菜が新規案件を獲得したらしい。初回の打ち合わせには営業部長の田中も同行し、制作は冬馬が担当することで話も決まり、問題なく進行したようだった。だが後日、アポを取って取材に向かったところ、カメラマンとライターが来なかった。春菜が彼らに集合場所を伝え間違えてしまったようだ。
その場にいたのは営業の春菜とディレクターの住谷だけで、まともな取材は困難だった。クライアントからは会社へクレームの電話が入り、ライターからは激怒され、こうして亀石に雷を落とされている、という話らしかった。さらに、別日に再取材を申し込もうとしたが、カメラマンのスケジュールが合わず、千夏には急いで別のカメラマンを手配してほしいということだった。
そのライターはベテランでクライアントからも評価が高く、亀石が昔から懇意にしているライターだった。亀石が怒るのも無理はないだろうと、千夏は目も当てられなかった。自分もボヤボヤしているわけにはいかないと思い、千夏は片っ端から他のカメラマンに電話をかけたり、メールやチャットを飛ばした。だが、どのカメラマンも直近はほぼスケジュールが埋まっていたり、予算で折り合いがつかなかったりして、なかなか捕まらなかった。
外出する時間となり、亀石が出ていき、部屋は静かになった。ドア近くにある作業台の前で、冬馬と春菜、住谷が座り、話し合いを始めた。この日は外出者が多く、部屋にいるのはその三人と白井、千夏だけだった。三人の声が、はっきりと千夏にも聞こえてきた。
「これに懲りて、伝達事項に間違いはないか、ちゃんと確認しろよ」
迷惑そうに言うのは住谷だ。冬馬は何も言わずに成り行きを見守っているらしい。
「はい。申し訳ありません」
春菜は蚊の鳴くような声を出す。
「じゃあな松下さん、今後は気をつけろよ」
春菜ははい、と返事する。住谷はため息をつきながら椅子から立ち上がり、ドスドスと音を立てながら部屋を出ていく。千夏はパソコンに目を戻し、残された二人の会話に耳をそば立てる。
「大丈夫だよ。営業部に報告に行くの、俺も一緒についてってやるから」
冬馬が泣いている春菜を慰める。その声は絡みつくように優しく、穏やかだ。千夏はタイピングしながら、ちらりと作業台の方を見る。春菜は泣きながら頷いている。
「いえ。冬馬さんは関係ないですから。私の仕事です」
「へー。じゃ、もう泣くのはやめろ」
「はい」
そう言ってもまだ泣いているようだ。千夏はパソコンに目を戻すも、イライラしてくる。
「お前、もう三年目なんだろ。勤続年数は俺より長いんだから、しっかりしろ」
冬馬の諌め方は穏やかだ。
「はい」
冬馬は春菜の肩に手を置く。千夏のタイピングする音と嫉妬心が、同時に大きくなってゆく。
「泣いてる顔も可愛いけど」
冬馬がそう言って笑うと、春菜がティッシュでチーンと鼻をかむ音が聞こえる。
「そういうの、要らないです」
春菜が言い返し、それには千夏も激しく同意する。本当に要らない。千夏はほぼ無意識にメールの新規作成画面を開き、「このやろうこのやろうこのやろう」とタイピングしてしまう。
「素直じゃねーな」
「あははは」
「笑えてんなら大丈夫じゃん」
まるで喧嘩した恋人同士が仲直りした直後のような甘いやりとりだ。千夏はそれに翻弄されないよう、パソコンの画面を注視する。けれども、箱ティッシュから何枚もティッシュを引きずり出し、ズビビビと無駄に鼻をかんでしまう。ダイエットスリッパをどこぞへ蹴り飛ばしてしまう。またしてもメールの新規作成画面で、今度は「だまれだまれだまれ」とタイピングしてしまう。そのとき、メーラーの受信箱に一通、メールが届いた。カメラマンからだ。
「杉崎君、春菜。カメラマン、確保できたよ」
千夏が画面から目を離さず、つっけんどんな声で言うと、冬馬と春菜が立ち上がった。
「本当ですか。ありがとうございます」
「うん。早く営業部のとこ行ってきなよ」
千夏はやはり画面から目を離さない。今度は「きえろきえろきえろ」と打ち込んでいる。
「はい」
冬馬と春菜は千夏に頭を下げると、パタパタと部屋を出ていく。結局、冬馬も行くのかと、千夏は舌打ちして見送った。




