妖精じゃありません
店員が料理を運んできた。
正秋は割り箸を箸入れから二つとり、一つを千夏に渡す。蒸し鶏をタレにつけて食べる正秋の顔を、千夏は油断なく観察する。
「ねえ、正秋」
「何?」
正秋は千夏を見ずに蒸し鶏を咀嚼する。
「正秋が妖精だって、本当?」
正秋は目をむき、激しく咽せる。
「何、それ」
口に手をあて、せき込んで涙目になる正秋を、千夏はにこりともせず凝視する。
「会社の女子、みんなそう思ってる」
「よ、よ、妖精って何だよ」
意味が分からないのか、ツボに入ったのか、正秋は笑う。
「三十過ぎて童貞だと、妖精になるらしいじゃん」
どうなの。答えなよ。はっきり言って、この歳で童貞は嫌だ。そんなのとランチする仲ではいたくない。他の社員にみられたらどうする。自分だって処女が嫌だから捨てた。いや、でもあの時は嫌々、捨てたわけでもない。冬馬とは甘くて切なくて…良かった。でもあれからまた今日まで、全然シてないけど。
千夏は急につまらない気持ちになり、目を細める。フォークを使い、野菜サラダをモシャモシャと音を立てて食べる。トマトを突き刺して口に運ぶ。甘さがほぼなく、とても酸っぱい。
「そんなふうに思われてたのか、俺」
正秋は情けなさそうに笑う。
「へー。じゃ、違うんだ」
千夏は怠惰な口調でいい、頬杖をつく。
「もちろん違います」
正秋は急に胸を張り、きっぱりした物言いをする。
「彼女、いるの」
千夏はさして興味もなかったが、一応聞いてやることにする。
「今はいない」
「キープは」
「いないって」
「内縁の妻は」
「いません」
ほうほう。なんだか取調官になった気分だ。千夏はまた楽しい気持ちが復活する。
「なんでそういう話、今まで聞かせてくれなかったの」
「言う必要ない。そういう千夏は今、彼氏いないの」
千夏は無表情になり、正秋をとくと見る。さらにため息をつく。
「いるように見える?」
「うん。だって最近、すごく可愛くなったし」
正秋が少し身を乗り出し、真正面からじっと見つめて言う。その表情が何だか精悍で男らしいので、千夏はまたしてもドキッとする。顔が熱くなってくる。
そうか。童貞じゃないんだ。恋愛経験もあるんだ。笑顔が尊いし存在が可愛いすぎて、そう見えなかった。女の抱き方を知っているだけでなく、女を褒めることもできるのか。女の扱いを知っているから、こうやって目も逸らさない。真剣さは少し伝わってくる。自分がダイエットして脱毛し、髪にパーマをかけてメイクを変え、ネイルをしたのは効果があったらしい。千夏は正秋がロボットように、コンソメスープを何度も何度も浅くすくい上げるのを、ただただ見つめる。妖精呼ばわりされて癪に触ったのだろうと思うと、千夏は笑いたくなる。同時に恥ずかしく、嬉しくもなる。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
千夏は照れて、うつむきがちに笑う。
「お世辞じゃないよ」
正秋は微笑むも、目はだけは真剣だ。
「正秋も前よりはかっこよくなったんじゃん?」
千夏は敢えて上から目線で言い放ち、顎を少し突き出して笑う。うん。自分と正秋の距離感は、これくらいがちょうどいい。
「前よりは、は余計」
「春菜と付き合っちゃえばいいのに」
正秋の顔から笑みが消えた。ふと、気まずい空気が流れた。あれ、やばかったかな。怒ったかな。それに千夏は自分の発言を後悔した。童貞でもないこんな「いい人」を、社内不倫している春菜とくっつけていいわけがない。だけど自分にアプローチされても困る。自分のタイプは冬馬で、それはもう三年前からの決定事項だ。正秋はまたじっと見つめてくる。今度は少し怒りが滲んでいるようだ。
「前にも言った。俺のタイプは…」
正秋の言葉を遮るように、バッグの中で千夏のスマートフォンがバイブした。千夏はごめんと断り、スマートフォンを手にとって席を立つ。洗面所に足早に駆け込み、電話に出る。電話の相手は住谷だ。
「はい…え? はい。分かりました、すぐ戻ります」
千夏は電話を切り、正秋の元に戻る。バッグから財布を取り出し、紙幣をテーブルに置いた。
「もう戻るの」
「ごめん、急ぎの案件なの。先、行ってるからゆっくり食べてて。今度、背中の羽根、見せてね」
「だから俺、妖精じゃ──」
千夏は正秋の言葉を無視し、笑いながら店を出た。




