セラフィーナ・ヴァン・アルセリオ
セラフィーナがどうなったのか気になる方が多かったようなので書きました。
総合デイリー3位ありがとうございます。
筆頭公爵家に生まれたセラフィーナ・ヴァン・アルセリオにとって、この世で自分の思い通りにならないことはないと思っていた。
自分を慈しんでくれる両親、教育の行き届いた使用人たち、荘厳で格式高い屋敷、流行のドレスもきらびやかな宝石たちも、彼女が望むと望まないとにかかわらず、手に入らないものはなかったのである。
その上、美貌にも恵まれたセラフィーナは、王太子の婚約者にも正式に指名され、地位も名声もほしいままにしていた。王太子のリヨンは美しいセラフィーナを溺愛しており、セラフィーナの前では飼い犬も同然で、彼女のためなら何でもするといった様子であった。もちろん、王太子という立場上、大きく道を踏み外すようなことはなかったけれど、その溺愛ぶりは側近たちがしばしば目を覆いたくなるものがあった。
セラフィーナがすてきと言えば、ドレスや宝石、めずらしい美術品など、私費から惜しみなく買い与え、夜は毎日セラフィーナと過ごし、彼女にこわれれば、朝の政務をサボることもしばしばである。さすがに政務に支障があるときは、国王や王妃からリヨンともどもお小言を賜ることもあるが、麗しい王太子と王太子妃として、城中の者が二人の成婚を祝福していた。
そうして、一年、二年と王太子妃として充実した日々を送っていたセラフィーナが、徐々にやきもきした思いを抱えるようになる。
――懐妊の兆しが、ない。
王太子妃の役目は公務もさることながら、最も重要なことは血を次代につなぐための跡継ぎを生むことである。リヨンとセラフィーナは毎日床をともにしているが、二年経っても子宝にめぐまれるどころか、その兆候すら表れない。
それでも、二年目まではまだよかった。過去にも、三年目で懐妊する王太子妃や王妃は少なくなかったし、国王も王妃も「自分たちのペース」で寛容な姿勢を見せてくれていた。
ところが、三年がいよいよ過ぎるころ、重臣たちの間で「そろそろお世継ぎを」の声が高まり、それとなく国王や王妃に進言する者も現れた。授かりものだからと悠長に構えていた両陛下も態度を徐々に変え、セラフィーナやリヨンに「跡継ぎはどうなっているか」と尋ねるようになったのである。
そのたびに、セラフィーナを溺愛するリヨンがセラフィーナをかばってくれていたが、セラフィーナの神経は妊娠できないプレッシャーで徐々にすり減っていたのだろう、次第にリヨンとの関係もぎくしゃくとしていった。
「どうしてよ……っ!」
月のものがくるたびにセラフィーナは周囲にあたり散らす。その様子に使用人たちは何も言えず、顔を下に向けてセラフィーナが落ち着くのを待つしかない。
そしてそんな様子を見かねた誰かが、リヨンの側近にその様子を告げ、リヨンがなだめにやってくる。それが、毎月のルーティンになりつつあった。
「セラフィーナ、落ち着くんだ」
報告を受けたらしいリヨンが部屋に入り、セラフィーナに声をかける。セラフィーナはクッションを投げようとした手をおろし、わっとリヨンに抱きついた。
「リヨン!だって、だって」
「わかってる。大丈夫だから」
リヨンがセラフィーナの背中を優しくなでると、セラフィーナも落ち着きを取り戻す。
「……申し訳ございません」
「いいんだ。――ところで、頼んでいた書類はどうなっている?」
「え?わたくしは跡継ぎのことでいっぱいいっぱいで、書類なんてできないとお伝えしましたわ」
「わかってるけど……。でも、政務だけでも完璧にこなしてくれないと」
「政務『だけでも』とは?わたくしが何もしていないみたいな言い方……!」
「ご、ごめん、でも」
「ひどいわ!あんなにわたくしを愛しているとおっしゃってくださっていたのに、殿下は変わってしまった」
セラフィーナがリヨンから離れ、さめざめと顔を覆って泣き出す。こうすればリヨンは素直に謝って、セラフィーナの言うことを聞いてくれると彼女はわかっていたのである。
ところが、今日のリヨンは様子が違っていた。
「……もう、いい」
リヨンは小さくため息をつき、側近に耳打ちする。セラフィーナにはその内容を聞き取ることはできなかったが、どくりと小さく心臓が跳ねた。
「もういいよ、セラフィーナ。君の気持ちはよくわかった」
「リヨン?……ねえ、待って」
リヨンは振り返ることなく、部屋をあとにする。セラフィーナは呆然と立ち尽くし、それでも心の片隅で、リヨンがまた戻ってくるのではないか、と考えていた。
しかし、そんな思いも虚しく、その日から、リヨンはセラフィーナと寝所をともにすることはなくなったのである。
「側妃?」
久々に父のアルセリオ公爵と対面できたかと思えば、その内容はとうていセラフィーナにとって受け入れられるものではなかった。
「ああ、そうだ。ブランシェ伯爵家の娘が上がることになる」
「どうしてですか!?リヨンはわたくしに側妃はとらないと約束してくれましたわ!」
「いつまでも世継ぎを生まないのだから、仕方ないだろう」
アルセリオ公爵は呆れたようにため息をつく。
成婚から三年半、一切妊娠する気配もなく、政務も滞りがちなセラフィーナに対し、各所から不満の声が上がっていた。最初は、リヨンと筆頭公爵であるアルセリオ公爵でおさえこんでいたものの、リヨンのセラフィーナに対する寵愛が徐々に薄れていき、アルセリオ公爵は娘を守ることよりも、筆頭公爵の立場を守ることにしたのだった。
先ほどの議会で、満場一致でリヨンの側妃を迎えることが決まったのである。
セラフィーナのことを思うと胸が痛まないではなかったが、リヨンまでもが側妃を娶ることに前向きな今、アルセリオ公爵にはこれ以上どうすることもできなかった。せめて自分の口から娘に伝えようと自ら赴いたものの、まるで王太子妃の自覚の見えないそのふるまいに、悲しみではなく落胆が胸に広がる。
「お父様まで……ひどいわ」
「政務も滞っていたんだろう?」
「だってそれは、仕方ないでしょう?」
「いいか、よく聞きなさい。本来なら、お前は離縁されてもおかしくない立場にいる」
アルセリオ公爵の厳しい発言に、セラフィーナはひゅっと息を吸い込む。
「今回離縁されなかったのは、まだリヨン殿下のお心がお前にある証拠だ。そのことを肝に銘じて、側妃とよい関係を築け」
セラフィーナは何と返事をしていいかわからず、顔を伏せて唇をかみしめる。
生まれてはじめて、セラフィーナは敗北感を味わっていた。今まで、自分の思い通りにならないことはなかったというのに。
「今夜、リヨン殿下からお情けがもらえるはずだ。しっかり励め」
父の言葉に、セラフィーナはすっかり言葉を失い、立ち去る背中をぼうっと見るしかなかった。
――お情け。
それは、セラフィーナが与えるものであり、決して誰かから与えられるものではない。
セラフィーナはそこから動くことができず、使用人に声をかけられても、すぐには反応することができなかった。
「はじめまして。エレナ・ブランシェと申します」
側妃として迎えられたエレナのあいさつを、セラフィーナは表面上はにっこり笑って受け入れる。
「ようこそ、エレナ様。これからともにリヨン殿下をお支えしましょう。わたくしのことはセラフィーナと呼んでちょうだいね」
「セラフィーナ様、ありがとうございます!」
セラフィーナが薔薇だとすれば、エレナはスズランのような女性であった。貴族として一通りの教育は受けているが、一挙手一投足が素朴で無邪気だ。笑った顔もかわいらしく、セラフィーナは心の中でエレナを見下し嫌悪していた。
リヨンはどちらかと言うとセラフィーナのような整った顔立ちが好みのはずだ。反対にエレナは、どこかあどけなさの残る顔立ちである。リヨンの寵愛を受けることはないと、セラフィーナはどこか軽く考えていた。
ところが、エレナが王宮に上がってから、リヨンは毎日エレナの寝所に通っているようだった。新婚の一週間は仕方ないとセラフィーナは鷹揚に構えていたが、二週間経っても、三週間経っても、リヨンはエレナのもとに通っているという。当然、セラフィーナのもとには顔すら見せることはない。
それでもセラフィーナは、最後の矜持で、表面上はいつも通り過ごしていた。リヨンがエレナのもとに通いやすいように積極的に政務も受け入れ、「やっぱりセラフィーナが一番だ」と言わせようと目論んでいたのである。
エレナに対しても積極的にお茶会に誘い、腸が煮えくり返るのを必死でおさえ、仲良くあろうと努めた。
しかしセラフィーナの決死の努力も虚しく、リヨンは一ヶ月経ってもエレナのもとに足繁く通ってセラフィーナのもとには何の音沙汰もなく、一度「会いたい」と側近を通じて伝えてもらっても、「忙しい」とすげなく断られてしまった。セラフィーナの胸の中に、どす黒い何かがどんどん大きくなって渦巻いていく。
――もし、エレナが懐妊したら。
嫌な予感が胸をよぎっては、セラフィーナの鼓動を早める。そんなことはありえない、リヨンの心はまだ自分にあるはずだと言い聞かせても、不安はどんどん大きくなっていく。
三ヶ月も経つと、徐々にリヨンの足がセラフィーナに戻ってくるようになった。リヨンが来ると、胸のもやもやもおさまる。
「リヨン、来てくれてうれしいわ」
「……ああ」
目が合わなくなっても、愛の言葉を囁いてくれなくなっても――義務的に抱かれるだけであっても、リヨンのお情けしか今のセラフィーナにすがるものはない。
そうして行為が終わると、リヨンは仕事は終わったとばかりに出ていこうとする。
「お泊りにならないの?」
「ごめん、忙しくて」
「……さみしいわ」
「ドレスでも宝石でも、好きなだけ買うといい」
そう言って、リヨンはセラフィーナを見ることなく出て行く。その背中に思っていることをぶちまけたいと思うが、それを言ってしまうともう二度ともとには戻れない気がして、セラフィーナはひとり屈辱に耐えるしかなかった。
エレナが側妃に迎えられ、半年が過ぎたころ、セラフィーナのもとに、エレナ懐妊の知らせが舞い込む。
「……なんで」
国王陛下とリヨンに望まれ、次期王妃として嫁いで四年にもなる自分には得られなかったものを、たった半年で手に入れたその事実に、セラフィーナは言葉を失う。
――自分はどこで間違えたのだろう。考えても答えは出ない。
「大変申し上げにくいのですが……セラフィーナ様とエレナ様のお部屋を交換するようにと」
「は?どうして?王太子妃はわたくしよ?」
「……リヨン殿下のご命令です」
リヨンの命令。臣下の言葉に、セラフィーナは力なくソファに背を預ける。貴族としての矜持も崩れてしまった。
セラフィーナが与えられてる部屋は、代々の王太子妃に与えられた、リヨンの私室に最も近い場所にある。そのセラフィーナとエレナの部屋を交換するということは、セラフィーナにとっては死刑宣告にも近いものだ。
「それから……」
「何よ!?」
気まずそうな顔をしたまま、臣下はおそるおそる口を開く。
「殿下から、エレナ様のご政務をセラフィーナ様が代わりに行うようにとも言われております」
愛しているのは君だけ。側妃はとらない。セラフィーナに婚約を申し込んだ日のリヨンの言葉が脳裏をかすめる。セラフィーナにひざまずき愛を乞うたはずの男は、今や自分のもとを訪うことも少なくなり、その上、側妃と部屋を交換しその仕事を肩代わりしろと言う。ずいぶんとなめられたものだと、セラフィーナは頭が煮えたぎるようだった。
「殿下と話します」
「そ、それは」
臣下が止めるのも聞かず、セラフィーナはリヨンの執務室に向かう。こうなっては恨み言の一つでも言わないと気がすまない。
「セラフィーナ様!?リヨン殿下はただ今ご公務中で」
リヨンの執務室前にいる護衛の言葉も無視して、セラフィーナは構わず扉をノックをしようとしたところで、扉の向こうで耳をつんざくような不愉快な笑い声が聞こえた。
「まあ、リヨンったら。今からそんなのでどうするんです」
「だって!もし女の子だったら、エレナに似てとってもかわいいと思うんだ。お嫁になんか行ってほしくないよ」
「まだ女の子と決まったわけでもないですよ。そんなことより、早くこの仕事を片付けてください」
「男の子だったら、エレナみたいに明るくて周りに好かれる王になるだろうなあ」
「リヨン、ベンジャミン様が困っていますわ。早くお仕事に戻らないと」
「エレナと離れたくない……!」
「うふふ、だからわたくしはここで刺繍をしていますから」
――何、これ。
セラフィーナは、全身に寒気を感じて、その場に立ち尽くす。
王太子妃は、自分なのに。リヨンが心から愛すると誓ったのは、自分なのに。
気づけばセラフィーナはノックも忘れ、執務室の扉を開けていた。
「……セラフィーナ」
めんどくさそうな顔でリヨンがセラフィーナを一瞥する。
「どうして」
「政務はどうした。私は忙しいんだ、あとにしてくれ」
気まずそうにソファに座るエレナの、膨らみのある腹が目に入り、セラフィーナは思わず声を荒げた。
「わたくしだけを一生愛すると言ったのはあなたでしょう!?それなのに、どうして……っ」
こんな男の前で泣いてたまるかと、こぼれそうになる涙を必死でこらえる。
リヨンは立ち上がることなく、書類に目を落としたまま、淡々と答えた。
「そんなこと言ったっけ?」
セラフィーナの呼吸が止まる。
「君のことはちゃんと愛してあげてるじゃないか。これからも王太子妃としてのはたらきを期待してるからね」
何がいけなかったのだろうか。セラフィーナの脳裏に、いろいろなことが浮かんでは消える。
ふと、王太子妃と王宮に上がる前に、護衛騎士を解任した男の顔が浮かぶ。名前も思い出せないその騎士の、呆然自失とした顔が、今の自分と重なった。
その後、セラフィーナの記憶はない。
あの日、セラフィーナが正気を保っていたのは、ほんの一瞬のことであった。
リヨンの執務室で倒れた彼女は、宮廷医師により神経症と診断された。情緒は安定せず、記憶の混濁も目立ち、他者との会話すら困難な日々。時に子どものように泣き、時に一日中沈黙し続ける。かつて誰よりも気高く、美しく、誇り高かった王太子妃の姿は、もうそこにはなかった。
当然王太子妃の仕事など務まるはずもない。事態を重く見た議会の判断により、王太子妃の座は解かれ、離縁が正式に決定した。その後を継いだのは、王太子の子を身ごもった側妃エレナ・ブランシェである。
アルセリオ公爵は、セラフィーナの療養の名目で、辺境の修道院へと送り出す道を選んだ。世間体を守るための多額の寄付と引き換えに、彼は娘を社会的に抹殺したのである。
王宮に飾られていたセラフィーナの肖像画はいつの間にか外され、その場所には、リヨンとエレナが寄り添う姿が飾られている。誰もが二人の肖像画を称賛し、セラフィーナの肖像画がなくなったことを話題にする者はいなかった。
修道院までの護衛を命じられたのは、皮肉にも、かつてセラフィーナの護衛騎士であったアレン・グランチェスターである。だが、セラフィーナは彼を見ても何の反応も示さなかった。記憶のなかに、その名も、顔も、もう残ってはいなかった。
セラフィーナは、左手の薬指にはめたダイヤの指輪をただただ楽しげに眺めていたという。