後編
「え……?」
「ごめんなさい。リヨン殿下が、わたくしの護衛騎士も自分で選ぶと聞かなくて」
リヨン王太子殿下にもらったらしい大きなダイヤの指輪を眺めながら、セラフィーナはいたずらっぽくほほ笑む。アレンは言い返す言葉が見つからず、先ほどのセラフィーナの言葉を脳内でぐるぐると反芻していた。
――わたくしの護衛騎士を解任するわ。今までご苦労さま。
セラフィーナが正式に王太子の婚約者に指名され、王太子妃の護衛騎士を選任することになった。何のために騎士になったのか悩むことが多かったアレンも、セラフィーナが王宮に上がると聞き、気持ちが多少上向く。
セラフィーナの護衛として同じく王宮に上がることができれば、アレンも自然と近衛騎士団に所属することになる。近衛騎士になれば――アレンはまだ自分の初恋を捨てきれずにいたのだった。
そんなアレンの期待を、セラフィーナはいとも簡単に「ご苦労さま」の一言で済ませたのである。アレンが言葉を失うのも、無理からぬことであった。
「わたくしの護衛騎士ではなくなるけれど、これからも公爵家を守る騎士としてよろしくね」
花もほころぶような笑顔にも、アレンは何の反応を示すこともできない。
「で、でも、セラフィーナ様」
「話は以上よ。わたくしは準備が忙しいの。下がってちょうだい」
アレンは何の反論もできず、そのまま部屋を出て行く。
リディアとの婚約解消が決定し、最後の望みである近衛騎士の夢も遠のいた。ここでアレンがこれまでの自分を振り返ることができれば、公爵家の騎士として身を立てる道もあったであろう。
しかしこのときのアレンは、まともな思考をほぼ失いかけていた。
「リディア……」
彼の頭には、失ったものを取り戻さねばならないという、まるで呪いのような考えにとらわれていたのである。
「リディア様、次はこのご本を読んで!」
「もちろん、いいわよ」
婚約解消が決まったその日、リディアは両親に相談して、母方の親戚にあたる隣国の子爵家に身を寄せていた。
もしあのまま家に残っていれば、いつ何時アレンや他の令嬢たちがやってくるかわからない。自分の気持ちを整理するためにも、リディアは国を離れて知り合いのほとんどいない場所でゆっくり過ごしたかったのである。
リディアが身を寄せたフィオレッタ子爵家は、葡萄をはじめとした果樹園を多く持つ農業がさかんな領地である。だからこそ、人は宝というのが子爵家の代々の考え方で、孤児院の運営にも力をれており、孤児たちに農業の基礎を教育することはもちろん、本人にやる気と素養があれば、簡単な読み書きも教え、人材育成もさかんであった。リディアはフィオレッタ子爵家に身を寄せる代わりに、自ら志願して、この孤児院で孤児たちに勉強を教える役割を担っている。
孤児たちはみな健やかで笑顔がたえず、リディアは毎日充実した日々を送っていた。子どもたちと触れ合うにつれ、アレンとのことも「いい思い出」になりつつあった。
勉強を教えるついでに、子どもたちに本の読み聞かせも行っており、これも子どもたちには大人気で、今やリディアは子どもたちの歓心を一心に集めている。
フィオレッタ子爵夫人には、「このままわが家に残らない?」と冗談っぽく言われていた。フィオレッタ子爵家には、次期子爵のカミロというひとり息子がおり、暗に婚約をほのめかされているのだ。しかし、アレンとのこともあり、リディアはその申し出には何とも答えられないでいた。
意外だったのは、夫人の言葉に、カミロが「リディア嬢を困らせてはいけない」とたしなめてくれることだ。カミロは夫人を通して婚約解消のことを知っているが、詳細は知らないはずである。婚約解消されるような「傷物」と見られてもおかしくないリディアに、一番気をつかってくれるのがカミロだ。
そんなカミロを、リディアが頼もしく思っていることは事実だ。アレンとの婚約解消が正式には成立しておらず、まだ前向きな気持ちにはなれなかったが、そういう未来があってもいいかもしれないとよぎるくらいには、リディアの心は快方に向かっていた。
孤児院での仕事を終えてフィオレッタ子爵家に戻ると、母から届いたという手紙が侍女から渡される。
「……へえ」
そこに書かれた内容に、リディアは驚くほど興味を引かれなかった。
セラフィーナが正式に王太子妃に指名されたこと――アレンが王太子妃となるセラフィーナの護衛騎士を解任されたこと。定期的に届く手紙で、なんとなく、アレンがセラフィーナの寵愛を失い、令嬢たちと距離ができているのだろうと思っていたが、決定的なことが起こったようだ。それにしても、婚約解消が決まってから、アレンが女性と適切な距離を持つようになった――女性から離れたのかもしれないが――というのは皮肉な話である。しかしながら、何年も積み重なった苦い経験は、こんなことくらいで消えてしまうものでもない。
母の手紙では、アレンがリディアの行方を探しているらしいことも書いてあった。とは言え、両親以外でリディアの行方を知る者はあの国にはいない。すぐさまアレンがやってくることはないだろうと、リディアはいつも通りフィオレッタ子爵領での穏やかな日々をしたためて返事を出す。
婚約解消の成立まで、気づけば残り三ヶ月を切っている。
「待ち遠しいわ」
無意識にぽつりとそうつぶやいて、リディアは心からの笑みを浮かべた。
その後もリディアの穏やかな日常は続き、今日はフィオレッタ子爵領で行われる収穫祭の日である。フィオレッタ夫人の好意で、リディアの両親も収穫祭に合わせてフィオレッタ子爵家を訪れていた。
「お父様!お母様!」
久々の両親との対面に、リディアは淑女の嗜みも忘れて抱きついた。
「リディア、元気そうでよかったわ」
両親もうれしそうにリディアを抱きしめる。そうして再会に喜んでいると、後ろでくすりと声が聞こえる。慌てて振り返ると、カミロが目を細めてリディアたちを見つめていた。リディアは恥ずかしくなり、赤くなった顔を伏せた。
「ようこそお越しくださいました、ローゼンベルク伯爵、伯爵夫人。カミロ・フィオレッタと申します。どうか気軽に、カミロとお呼びください」
「はじめまして、会えてうれしいよ。娘からの手紙で知ってはいたが、そうか君が」
父が意味ありげににやにや笑いでカミロとリディアを見比べる。リディアは父を少しにらんで、肘で父の背中を小さくつついた。母もそんなリディアを見て、楽しそうに笑っている。
「中で両親も待っております。ぜひ」
ローゼンベルク伯爵夫妻とフィオレッタ子爵夫妻はもともと母同士が親戚だったこともありすぐに打ち解けたようだ。夜はフィオレッタ子爵自慢のワインを飲もうと盛り上がっている。両親の様子を見て、リディアもほっと胸をなでおろす。
両親が到着する一週間前に届いた手紙には、無事アレンとの婚約が解消されたことが書いてあった。次の婚約をと両親が考えていることはリディアにもわかっていたし、このままいけばフィオレッタ子爵家に嫁ぐ可能性が高そうだ。そんな状況を、リディアはただ静かに見守っていた。決められた婚約をするという前提は変わっていないが、フィオレッタ子爵家となら、カミロとなら、そうなってもいいとはっきり思っていたからである。
リディアは盛り上がる両家の親たちを置いて、先に収穫祭に向かう。イベントに参加してほしいと領民から依頼があり、孤児たちと一緒に葡萄踏みを行うのだ。準備のためリディアだけ早めに屋敷を出ることになっていた。
「リディア」
用意された馬車に乗る手前で、カミロに呼び止められる。
「カミロ様、どうしたんです?」
「俺も一緒に行くよ」
「いいんですか?」
「君と一緒にいるほうが楽しそうだから」
リディアは頬が熱くなるのを感じながら、小さく頷いてカミロと馬車に乗り込んだ。
屋敷を出てすぐ、遠くに馬が見えた気がしたが、カミロに話しかけられてすぐに意識の外に消えていった。
葡萄踏みは、裸足になって桶に敷き詰められた葡萄を踏むというイベントである。指定された広場には、孤児たちや領民たちが集まっていた。リディアはカミロにエスコートされて広場に近づく。
「リディア様!」
リディアに気づいた孤児たちがうれしそうに二人に近づく。
「こっちだよ!」
リディアはカミロをちらりと見る。カミロが小さく頷いて手を離し、リディアは子どもたちの手をとった。桶の前に立ち、リディアは靴を脱いで葡萄の中におそるおそる足を踏み入れる。柔らかい感触とひやりとした葡萄の果汁を足の裏に感じ、思わず「わあ」と感嘆の声が漏れた。
リディアはドレスが汚れるのも構わず、子どもたちや他の若い娘たちと一緒にみずみずしい葡萄をダンスを踊るように軽やかにつぶしていく。そんなリディアを、カミロはまぶしそうに、そしてうれしそうに優しく見守っていた。
「リディア……」
葡萄踏みを楽しむリディアを遠くから見つめるひとりの男がいた。目立たないようにローブを目深にかぶり、建物の陰からこっそり見つめる男はアレン・グランチェスターだった。
アレンは、騎士団の仕事をサボり、ローゼンベルク伯爵たちの動向をこっそりと探ってここまでつけてきたのである。目の下には隈ができ、頬も少しこけている。かつて見目麗しい騎士としてあまたの令嬢たちを魅了してきたとはにわかに信じがたい様子である。
「リディア……リディア……」
葡萄を踏むリディアの笑顔が、幼いころのリディアの笑顔と重なる。
――これで戻れるんだ。
アレンは引き寄せられるように、ふらふらとリディアに近づく。
葡萄踏みが終わり、リディアは子どもたちと水の入った桶で足を洗っていた。貴族としては考えられない行動を子どもたちと一緒になって楽しむリディアを見て、領民たちはすっかり「次期子爵夫人」だと思い込んでカミロをからかっている。
そんな和やかな雰囲気などまったく見えていないアレンの声が響いた。
「リディア!」
リディアは目の前に現れたアレンにはっと息を呑む。
「……どうして、ここに」
「リディアに会いたくて」
ため息をつき、リディアは布で足を拭いて立ち上がる。
「ここでは邪魔になりますから、あちらへ」
心配する子どもたちに「すぐに戻るから」と告げて、リディアは人気のない路地裏にアレンと向かう。カミロもリディアを心配して、一緒についてきた。アレンはカミロを邪魔そうに見ていたが、「二人きりなら話さない」とリディアに言われ、しぶしぶ受け入れている。
「……で?」
感情のない目を向けられ、アレンの肩がびくりと震えた。先ほどの葡萄踏みのリディアとはまるで別人で、アレンは一瞬言葉に詰まる。
「そ、の……どうしても、謝りたくて」
「謝って、何ですか?もう婚約は解消されているはずです」
「もっとリディアのことをしっかり見ておくべきだったと思ってる。申し訳なかった。でも俺は、立派な騎士に……」
「他のご令嬢にちやほやされることが、『立派な騎士』なんですか?」
鋭い言葉に、アレンの勇気がしゅるしゅるとしぼんでいく。
「ちやほやって……ただ、優しい騎士であろうと……」
リディアはちらりとカミロを見る。カミロは変わらず穏やかな笑みを浮かべて、力強く頷いた。リディアはそれを見て、息を吸い込む。
「その足りない頭で、もう少し考えたらいかが?」
「え?」
「今ようやくわかったわ。あなたのそれは優しさじゃない。誰からも嫌われたくなかっただけでしょう?」
アレンの顔がさっと青ざめる。リディアは表情を変えずに続けた。
「ご令嬢たちに囲まれて、『優しい騎士様』は気持ちよかったでしょうね」
「ちが……」
「あなたの優しさは、もういりません」
呆然としたまま、アレンはがくりと膝から崩れ落ちる。リディアは背を向けて、歩き始めた。カミロは何も言わず、リディアの隣を歩く。
待たせていた馬車に乗り込むと、リディアはようやく口を開いた。
「……幻滅した?」
アレンと対峙しているときは毅然としていたのに、リディアの声は震えていた。カミロは驚いたように目を見開くと、リディアの隣に座り直す。
「リディアはとっても優しいね。誰とでもまっすぐ向き合う姿に、ますます好きになったよ」
――結婚するなら、優しい人がいい。
リディア・ローゼンベルク伯爵令嬢は、自身の結婚についてそのような思いを持っていた。一度はその考えは誤っていたと思っていたが、紆余曲折を経て、改めてそのように思うようになっている。
――自分に寄り添い、大事なときに隣にいてくれる人。
リディアは、自分が求める優しさに、ようやく出会うことができた。