中編
リディアが屋敷に帰ると、家令や使用人たちが慌てたように出迎える。本来であればもう少し遅い帰りのはずで、その上婚約者であるアレンの姿も見えず、何かを察した家令がローゼンベルク伯爵夫妻を呼ぶよう他の使用人に声をかけた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ええ、ありがとう。お父様とお母様は?」
「今お声がけに」
「そう。パーラーで待つわ」
「お着替えは?」
「早く話したいの」
リディアの鋭い声に、家令はそれ以上何も言わず頭を下げる。侍女とともにパーラーに入り、ソファに深く腰かけると無意識にため息が出て、セラフィーナとアレンのダンスの光景が脳裏に浮かぶ。あんな光景を見るために、アレンの騎士の夢を支えようと思っていたわけではないのだが、結果的にリディアの努力があの結果をもたらしたのだと思うと、いっそ笑えてきた。
侍女が気づかわしそうにリディアの様子を伺いながら、温かい紅茶を目の前に置く。それを一口含むと、自然と心が落ち着いた。リディアの様子から何かを汲み取って、心が落ち着くものにしてくれたのだろう。
侍女の気づかいをありがたく思っていると、慌てたような両親が部屋に入ってきた。
「リディア、ずいぶんと早かったな」
「お父様、お母様、大変申し訳ございません」
リディアは両親が声をかけるなり、ソファから立ち上がり深く礼をする。
「な、何が……」
「お父様とお母様のご期待を、裏切ってしまうことになりました」
リディアの言葉に、両親が戸惑うように顔を見合わせる。
「本日の夜会で……アレンが、わたくしとファーストダンスを踊る前に、アルセリオ公爵令嬢様とダンスを」
リディアの発言に、母が小さく悲鳴を上げる。父も信じられないという顔でリディアを見つめた。
婚約者を伴う夜会で、その婚約者とファーストダンスを踊らないということは、その婚約がうまくいっていないと公然と示すことになる。アレンがそのことを知っていたのか、今となっては確かめるつもりもないけれど、少なくとも男女関係なく不名誉なことは間違いなかった。
「わたくしなりによい婚約者であろうと努力したのですが……力が及ばなかったようです」
リディアが自嘲気味にほほ笑むと、母がリディアを抱きしめる。
「そんなことないわ!あなたは、立派だった。誰がなんと言おうと、母様はそう言うわ」
「も、もちろん、父様もそう思っているさ。リディア……本当に……」
父にもその上から抱きしめられ、思わず涙がこぼれる。悲しいのか、悔しいのか、怒りか……本当のところはわからなかったが、リディアの心はいつになく穏やかであった。
――ようやく解放された。
他の令嬢とアレンが仲睦まじくしている様子を見るのが嫌だった。ご令嬢にからかわれて、顔を赤くするアレンを見るのが嫌だった。婚約者がいるのに、あからさまなアプローチを受けて、それに気づかずはっきり断らないアレンを見るのが嫌だった。――誰にでも優しい、アレンが嫌だった。
それを言えば、リディアがますます悪者になると思うと、口をつぐんでほほ笑むのが一番いいと自分に言い聞かせていたが、それももう終わるのだと思うとリディアの胸のかたまりがゆっくり溶けていくようだ。
翌朝、グランチェスター伯爵に婚約解消の旨を申し出て、両親にすべての対応をまかせ、リディアは部屋に閉じこもることにした。時間も気にせず眠り、太陽が高くなるころに目が覚める。
部屋で朝食兼昼食をとっていると、家令が控えめなノックとともにアレンの来訪を告げた。どうやら、父は婚約解消のことは伏せているが、アレンが来ても通すなときつく言いつけていたようだ。
「旦那様のお言いつけ通りお帰り願ったのですが、お嬢様のお顔を一目見るまで動かないとおっしゃいまして……」
困り果てた家令の様子に苦笑して、食後の紅茶を流し込む。すっきりとした味わいの紅茶は、回らない頭をしゃっきりとさせてくれる。
「なら、好きなだけいていただければいいわ」
「え?」
「そのうち、アルセリオ公爵家からお呼び出しがあればそちらに行くでしょう」
「はあ」
普段のリディアであれば、淑女の笑みを浮かべて、「サロンにお通しして」と言うところだが、アレンとはまず間違いなく婚約解消になるだろう。会ったところで、婚約について決めるのは、ローゼンベルク伯爵であり、グランチェスター伯爵である。アレンに何を言われたところで、リディアの気持ちは関係ない。
家令が部屋を出て刺繍に勤しんでいると、部屋の窓からアレンの馬車が出て行くのが見えた。どうやらリディアの言った通り、アルセリオ公爵家からお呼びがあったようだ。それが、アレンの仕事なのだから、仕方ない。
「お帰りになったようですね」
「そうね。護衛騎士も大変なお仕事なのよ」
侍女の言葉にも、リディアは何でもないことのように答える。――実際、すでにリディアにとっては、「何でもないこと」であったのだけれど。
両親が戻ってくると、リディアは父の書斎に呼び出された。昨日の今日で婚約解消までいったとは思っていないが、解消に向けて動き出すことで話はまとまっているだろう。
書斎に入ると、リディアの期待通り、神妙な面持ちで父が口を開く。
「グランチェスター伯爵とも話し合ったが、即時婚約解消とはならなかった」
「そうですか……」
「しかし、アレン君に婚約者の自覚がないことはグランチェスター伯爵も認めたよ。一年以内に、婚約を解消することで話し合うことになった」
当然のことだとリディアのも心の中で頷く。婚約とは、言わば両家の契約である。それを解消するならば、解消後の条件や処遇など、決めるべきことは多いだろう。
それに、これでアレンの「目指すべき騎士」を邪魔しないで済むことも、リディアにとってはうれしかった。婚約者として絆を育むことはできなかったけれど、幼なじみとしての情が残っていることは確かだ。婚約解消が決まった今、アレンには幼なじみとして、彼の夢だった騎士となってもらいたいと心から思える。
「お父様、お母様。お願いがあるのですが……」
「リディア嬢と婚約解消をすることで、話がまとまった」
家に帰ると、父のグランチェスター伯爵に事務的に告げられ、アレンは一瞬言葉を失った。
「な、ぜ……」
「わからないの?」
めずらしく冷たい母の声に、アレンの肩がびくりと跳ねる。見たこともない母の目に、アレンはこの婚約解消が、自分の原因によるものだと悟った。
「リディアとは、婚約者としてうまくいっていると」
「あなた、昨夜の夜会で、リディアちゃんとのファーストダンスがまだなのに、アルセリオ公爵令嬢様と踊ったそうね?」
母に言われ、アレンは昨夜の夜会を思い出す。
たしかに、リディアとのファーストダンスがまだなのにセラフィーナと踊った。しかしそれはセラフィーナが、リディアがいいと言っていたと告げたからであるし、セラフィーナからリディアへのフォローは行うと聞いたからである。そうでなければ、リディアを置いて踊るわけがない。
セラフィーナは、王太子の婚約者候補筆頭であり、彼女の護衛騎士としてよい関係を築いてきた。ここで変に断って彼女の機嫌を損ねてもとは思ったが、リディアも理解してくれるはずである。
――そのはず、なのに。
「たしかに踊りましたけど、でもそれはセラフィーナ様が……」
「お前は、アルセリオ公爵令嬢の護衛として夜会に参加したのか?」
父の問いに、アレンははっと息を呑む。
「……わたくしのせいだわ」
母の言葉に、アレンは胸がしめつけられる。
「わたくしが、育て方を間違えてしまった」
「自分を責めるな。私も、悪かった。騎士として淑女の扱いを伝えていたが……あしらい方を教えていなかった」
両親の言葉に、アレンは何も言葉が出ない。悲しみ……そして失望。それは生まれてはじめて向けられる感情だった。
セラフィーナとのダンスを終えて、気づけばリディアが先に帰っていたことは気になっていた。今朝も隙を見てローゼンベルク伯爵家に向かったが、リディアに会うことは叶わず、すぐにセラフィーナに呼び出されたのだ。リディアのことはもちろん気になっていたし、フォローしなければということは理解していたのに。
――最初から、間違えていた?
何を、どこから。考えてもわからない。セラフィーナと踊ったことがまずかったことは理解できるけれど、それだけで解消という話になるだろうか。もしかすると、自分はずっと前から、何かを間違えていたのだろうか。
「令嬢との過度な接触は控えろとあれほど言ったのに」
ため息とともに吐き出された言葉に、アレンの背中に一筋の汗が伝う。
アルセリオ公爵家の騎士団に入団したころから、アレンはご令嬢から声をかけられることが多くなった。剣の腕を磨くことに必死で、堅物な自分がおもしろいからからかっているのだと、父に何を言われてもそうとしか思っていなかったのは事実だ。リディアも、いつも笑って「アレンは優しいから」と言ってくれていたというのに。
「もう、どうしようもないのでしょうか?」
アレンの言葉に、母がきっと睨む。
「リディアちゃんのことを思うなら、受け入れなさい」
「でも、私は、リディアを愛しているんです!」
小さなころに出会った笑顔のかわいい女の子。こんな子を隣で守れるほど強い男になりたい。そう思って騎士を目指したあの日の気持ちが胸を駆けめぐる。
――リディアがほほ笑んでくれるから、騎士でいられるのに。
「愛しているなら、あきらめなさい」
「そんな……」
「リディアちゃんの幸せに、あなたはいらないの。その事実を受け入れて、せいぜい精進しなさい。あなた、騎士でしょう?」
――大きくなったらリディアを守れる騎士になりたい。
あのときのリディアのうれしそうな笑顔が大好きで、この笑顔のためならつらい訓練もがんばることができた。優しい人が好きだと言うリディアの理想に近づきたくて、誰に対しても優しくあろうと努めた。
アレンはこのときはじめて気づく。
最近のリディアの笑顔が、淑女としての笑顔であったことを。そして、あのころのような、無邪気な笑顔を見ていなかったということを。
「なんだか、元気がないのではなくて?」
セラフィーナに声をかけられ、アレンははっと我に返る。どうやら少しぼうっとしてしまっていたらしい。昨夜はあまり眠れなかったせいだろう。
「いえ、申し訳ございません」
「心配だわ。いつもにこにこしていて、わたくしにちょっと過保護なアレンが好きなのに」
セラフィーナの「好き」に、いつものアレンならおろおろして顔を赤くしていたことだろう。しかし、今日のアレンは違っていた。セラフィーナの言葉に、苦笑いで生返事を返すだけである。
「……本当に何か変だわ」
「あの、セラフィーナ様」
「どうしたの?」
「その……先日の夜会のことで……」
セラフィーナは、この前の夜会で、アレンと一緒に踊ったことを思い出す。穏やかに自分を見つめるアレンと、それを羨望の眼差しで見つめる周囲の貴族たちの視線を思い出し、セラフィーナは思わず笑みがこぼれた。
「とってもすてきな夜だったわね」
小首をかしげて、腕を組んで少し胸を強調する。こうやって扇状的な姿を見せれば、胸もとに視線がいって慌てるアレンを見ることができるからだ。しかし、やはり今日のアレンは、セラフィーナにとっては悪い意味で、違っていた。
「あの日、セラフィーナ様とダンスをいたしましたが、その後、リディアへのフォローはしていただいたのでしょうか?」
「リディア?……ああ、たしか、婚約者ね」
セラフィーナの脳裏に、貼りつけたような笑みを浮かべるぱっとしない令嬢の姿が浮かぶ。麗しいアレンには少し不似合いな、平凡な令嬢だったとセラフィーナは鼻で笑う。
「そんなこと言ったかしら?」
「まさか、リディアに何も言ってくれていないんですか……!?」
「フォローなんてしなくても、アレンの仕事を理解しているんでしょう?あなたがそう言っていたじゃない」
セラフィーナに言われ、アレンはぐっと押し黙る。たしかにアレンは、自分の仕事に理解があるので何も言わなくてもわかってくれると言ったことがある。セラフィーナのわがままに付き合って、リディアとの約束を反故にすることもあり、セラフィーナに謝られてその気持ちを少しでも軽くしようとして……。
今さらながら、自分がリディアに対して不誠実であったことを突きつけられ、アレンの顔から血の気が引く。
「はあ、不愉快だわ。アレン、今日は下がって」
セラフィーナにしっしと振り払われ、アレンは他の護衛騎士に部屋を出て行くよう促される。セラフィーナからリディアへのフォローをしてほしいと再度伝える暇もなく、アレンは半ば強引に退室を余儀なくされた。
その日から徐々に、セラフィーナがアレンを呼び出す回数が減っていった。アレンがその場にいても声をかけることも減り、その様子が使用人たちの噂にのぼり、他の令嬢たちもあまりアレンに近づかなくなった。以前のように、うぶで、からかわれるとすぐに赤くなる「からかいがいのあるアレン」でなくなったからだろう。
リディアとの婚約解消が決まってから、アレンは上の空になっていることが多く、以前のように令嬢たちに声をかけられても、彼女たちが期待する反応を返せなかった。まるで抜け殻のようなアレンは、いくら見た目がよくても、以前のような魅力は目に見えてなくなっていたのである。
セラフィーナに呼ばれなくなれば、アレンは自然と訓練場で剣を振る時間が増えた。剣を振っている間は、誰からも声をかけらず、時間の経過を忘れられる。
剣を振りながらも、アレンの心を占めるのは、リディアのことである。
――リディアちゃんの幸せに、あなたはいらないの。
小さいころから隣にいた大切な女の子を幸せにしたかった。そのために剣を振っていたはずだった。
今、アレンが剣を振るのは何のためなのか、彼自身にも答えが見つかっていない。