前編
――結婚するなら、優しい人がいい。
リディア・ローゼンベルク伯爵令嬢は、自身の結婚についてそのような思いを持っていた。貴族として生まれたのだから、政略結婚が当然であるし、愛し愛されるという関係を――もちろんそうなれば嬉しいとは思いながら――望むことは難しいことは理解している。
それでも、愛はなくても、家族としてお互いに優しさを持って穏やかに暮らすことができれば。
そんな風に考えていたリディアにとって、アレン・グランチェスターとの婚約は、夢のような話であった。
アレンとは、父同士が従兄弟同士であり、幼いころからの幼なじみである。リディアにとってアレンは、家族以外に初めて接する異性であり、燃えるような気持ちとはいかないまでも、淡い初恋もあったと思う。アレンは幼いころから、父のグランチェスター伯爵のような近衛騎士になることを夢見ていた。
「大きくなったらリディアを守れる騎士になりたい」
そう言ってはにかむアレンに、リディアは幸せで胸がいっぱいであった。そして、貴族の娘でありながら、アレンと婚約を結べた自分の幸福を心から喜んでいたのである。
――優しい人なら、いいと思っていたけれど。
リディアは、目の前の光景を見ながら、心の中で自嘲気味に笑う。
「また私をからかったんですか?」
楽しそうにほほ笑むどこかの令嬢に、真っ赤な顔をしておろおろする婚約者の姿を、これまでに何度見てきただろう。リディアは数えようとして、両手の指で足りないことに気づいて考えるのをやめる。
婚約者として、アレンはたしかに優しい。正確には、優しすぎた。
騎士を目指す貴族子息として、女性には紳士的に、というのはもちろんリディアも理解している。アレンがそのつもりであるだろうことも想像できる。しかし、アレンが他の貴族子息と違うとすれば、誰に対しても等しく優しすぎることであった。
女性に対して、「美しい」「かわいらしい」と笑顔でほめたたえるのはもちろん、女性にちょっと抱きつかれれば振り払うことなく顔を真っ赤にしておろおろし始める。「そういうところ、私は好きですよ」という言葉を軽々しく言って、勘違いさせたこともしばしばである。
両親からも注意を受けてるが、何が悪いのかいまいち理解できないようで、結果的に夜会で婚約者を放置し、どこかの令嬢と仲睦まじく談笑しているのである。どこかの令嬢に腕を組まれ、胸を押しつけられて顔を真っ赤にする婚約者など、誰が見たいと思うだろう。
アレンは騎士を目指していただけあって背も高く、ほどよく筋肉のついたよい体躯をしている。その上、ルビーのような赤い髪に意志の強そうな――実際強いかは別として――漆黒の瞳に、令嬢たちが騒ぎたくなるのも仕方ない。その見た目で、女性に優しく、困っている人は放っておけない。そんな婚約者を、リディアも最初は誇りに思っていた。しかし、アレンの長所だと思っていたところは、リディア以外の人間にとっては長所でも、リディアにとっては自分自身を苦しめるものであった。
優しいことはすばらしいこと。しかしそれは、自分以外の女性にも平等に優しいときはまた別だと、リディアはわかっていなかったのである。
「ごめん、リディア!」
さんざんご令嬢との歓談を楽しみ、申し訳なさそうな顔で戻ってくるアレンに、リディアはいつも通りほほ笑む。
「いいのよ。アレンは優しいのね」
その言葉に、アレンはうれしそうな笑顔を見せるのだった。
アレンの顔が見れず、リディアは喉がかわいたと断って飲み物を取りに行く。そのとき、周囲がざわめき、リディアの視線も自然と入口に向けられた。
「アルセリオ公爵令嬢様よ」
「今日もお美しいわ」
アルセリオ公爵にエスコートされ入場したのは、多くの貴族子息、貴族令嬢の憧れの的であるセラフィーナ・ヴァン・アルセリオ公爵令嬢である。アルセリオ公爵家は、数代前に王女が降嫁したこともある名門貴族であり、セラフィーナは王太子の婚約者候補として注目されている。
ふつうならリディアもうっとりした目でセラフィーナを見つめるところだが、今のリディアは純粋にセラフィーナに憧れる気持ち以外に、筆舌に尽くしがたい複雑な感情が渦巻いていた。グラスを持つ手が震えていることに気づき、リディアは震えを止めるべく空いている手をそっと重ねる。
まるで足が縫いつけられたようにその場から動けないでいると、先ほど気まずくなって離れたアレンが近づく。
「リディア?」
「あ……ごめんなさい」
「いいんだ。それより、セラフィーナ様もいらっしゃったんだね」
優しそうな目でセラフィーナを見つめるアレンの横顔を見たくなくて、リディアはセラフィーナをぼんやり見つめる。アレンが呼ぶ「セラフィーナ様」という言葉も、まるで自分のことなどどうでもいいと言わんばかりの「それより」という言葉も、すべてがチクチクとリディアの心を刺してくる。
アレンは、近衛騎士を目指しながら、現在はアルセリオ公爵家が所有する騎士団に所属している。そこで剣の腕を買われ、アレンはセラフィーナの護衛騎士を任されていた。麗しい公爵令嬢と、美貌の護衛騎士。その二人が、人々の噂の的になるのはいっそ当然のことで。当然、リディアの耳にも、お似合いの二人だの、本当は想い合っているのではないかだの、乾いた笑いしか出てこない話が、入ってきていた。
もちろんアレンは、セラフィーナのことをお仕えする以上の気持ちはないと言っていたが、セラフィーナに望まれれば、婚約者としての定例の茶会やデートの約束も当日にキャンセルになることはしばしばである。キャンセルになったらその分フォローはしてくれるが、リディアの心は完全に疲れ果てていた。
誰かに相談できればと思っても、世間はセラフィーナとアレンのほうを支持する声が多いし、両親は心配しつつも相手が公爵家であることや王太子の婚約者候補であることもあって、心配するようなことはないと考えているようだ。アレンの両親は申し訳なさそうにリディアを訪ねてきてくれるが、リディアはいつも笑って「アレンの夢を応援しているので」と言うしかなかった。
アレンの夢を応援していることは事実だ。由緒正しい公爵家の令嬢の護衛騎士が、どんなに誉れあることかも理解している。それに、アレンは、ちゃんとリディアにも優しかった。そんなアレンにわがままを言ってしまったら――それこそ、本当に自分が「悪者」になってしまうような気がして、何も言えなかったのである。
ぼんやりとセラフィーナとアレンのことを考えていると、いつの間にかセラフィーナがこちらに――アレンに近づいていることに気づく。リディアはすぐさま淑女の礼をとり、アレンも膝をついて騎士の礼をとった。
「アレン、やっと会えた」
うれしそうなセラフィーナの声に、リディアの心が小さくはねる。
「セラフィーナ様、ご機嫌麗しく。本日は護衛の任につけず、大変申し訳ございません」
アレンの言葉に、まるでリディアは責められたような気持ちになり、床を見つめたまま唇をかんだ。
「残念だったけれど、仕方ないわ。それに、夜会に出るアレンも見てみたかったもの」
セラフィーナが鈴のように笑う。
「お、恐れ多いですです。セラフィーナ様も、本日はとてもお美しく」
「まあ、本日『は』なの?」
「あ、いえ、本日も、お美しいです」
「うふふ。アレンは本当にからかいがいがあるわね」
「セ、セラフィーナ様……!」
まるでリディアの存在など見えていないかのように、二人の会話が続いていく。
リディアは、セラフィーナから声をかけてもらえず、頭を上げることができない。高位の貴族から声がかかるまで、下位の貴族は話をすることができないからである。せめてアレンがリディアを紹介してくれれば――。
しかし、そんな祈りは誰にも届かない。
「ねえ、アレン。このあとのダンス、わたくしの相手をしてくださる?」
「ええ?そんな、恐れ多いです」
「あら、わたくしと踊るのは嫌なの?」
「嫌なんてそんな……!でも、セラフィーナ様と踊りたい方はたくさんいらっしゃるでしょう」
「それでも、わたくしはアレンと踊りたいわ」
二人のやり取りを、周囲の貴族が聞き耳を立てているのが気配でもわかる。ドレスをつかむリディアの手に力が入った。
「あ、でも、えっと、今日は婚約者と来ていて」
アレンの言葉に、セラフィーナは今初めて気づいたかのように言う。
「まあそうだったの。アレンの婚約者」
「リディア・ローゼンベルクと申しまして、ローゼンベルク伯爵のご息女です」
リディアはようやく顔を上げることができ、淑女の笑みを浮かべて恭しくあいさつした。
「お初にお目にかかります。ローゼンベルク伯爵の娘、リディア・ローゼンベルクと申します」
「セラフィーナ・ヴァン・アルセリオです。……アレンから、たまに婚約者のことを聞くことがあったけど」
たまに、という部分が強調されたのは、きっとリディアの気のせいではないだろう。
「アレンは何があってもわたくしを優先してくれるから、婚約者の方に恨まれているのではと心配だったのよ」
「とんでもないことでございます。アルセリオ公爵令嬢様にお仕えできることは、望外の幸福だといつも聞いております」
「リディアは、私のことを本当によく理解してくれているんですよ」
アレンの言葉にも、リディアは笑みを崩さぬよう努めた。
――お仕えする方を優先するのは仕方ない。それが騎士の仕事だから。騎士になりたい婚約者のよき理解者でいないと。
リディアがその場で笑みを浮かべて背筋を伸ばして立っていられるのは、貴族令嬢としての尊厳を守るためである。それがなければ、とっくにこの場から逃げ出していたに違いない。
「うらやましいわ。すてきな婚約者がいて」
「セラフィーナ様なら引く手あまたですよ」
「ふふ、うれしいわ。アレンのような方なら、きっと退屈しないでしょうね」
「セラフィーナ様、変なこと言わないでください」
顔を赤らめるアレンを、セラフィーナは楽しそうに笑って見ている。
リディアは、自分が今どんな顔をしているのか、まったくわからない。
「それにセラフィーナ様には、わが国の太陽に望まれているとみなが噂しているではありませんか」
わが国の太陽とは、王太子のことである。まだ婚約者候補ではあるが、ほとんどセラフィーナに決まっているようなものであることは有名な話だ。だからこそ、禁断の愛だと、とくに下位の貴族や使用人たちの間で勝手に盛り上がっていることも、リディアは理解していた。
「そうねえ。でも、もし太陽がわたくしを照らさないときは……アレンが、一生わたくしの側にいてくれるのかしら?」
「な、な……セラフィーナ様!」
「うふふ、ただの冗談なのに。アレンって本当退屈しないわ」
――気づけば、セラフィーナは目の前からいなくなっており、アレンは別の貴族子息と話していた。
セラフィーナの最後の言葉は、リディアの最後の尊厳をずたぼろにしたようだ。リディアは談笑するアレンを見て、そっとその場を離れる。しばらく会場の外に出たかった。
パウダールームに向かっていると、「ねえ」と声をかけられる。その声にびくりと肩がはねたが、無視するわけにもいかずリディアは恐る恐る振り返った。
「……アルセリオ公爵令嬢様」
「先ほどはごめんなさい。アレンと話していると楽しくなってしまって」
「いえ、アルセリオ公爵令嬢様に目をかけていただいて、アレンも喜んでおります」
「そう?アレンって本当うぶで一生懸命よね」
「ええ……」
耳を塞ぎたい衝動を、リディアは必死で押し込める。
「アレンのこと、これからも大切にしてあげて。――わたくしの護衛騎士を、ね?」
リディアは、もう、言葉を発することもできなかった。
パウダールームでしばらくぼんやりしたあと、ふとわれに返りリディアはあわてて会場に戻る。そろそろダンスパーティーの時間だ。さすがに婚約者をいつまでも一人にしておくわけにはいかない。夜会でのファーストダンスは婚約者と踊るのが通例で、婚約者がいるのにいつまでも壁際に立たせておくことは、アレンに恥をかかせる行為となる。
早足で会場に戻ると、ダンス用の音楽が会場を包みこんでいる。中央ではさまざまな貴族たちが華麗なダンスを披露していた。きょろきょろと周囲を見回してアレンを探していたが、通りかかった令嬢の「すてき!」という言葉に、リディアの目線も吸い寄せられる。
「……え?」
フロアの中央、多くの貴族の目線を集めていたのはセラフィーナと――アレンであった。
「どういうこと……?」
アレンとリディアはまだファーストダンスをしていない。にもかかわらず、セラフィーナと楽しげに踊っているのは間違いなくアレンである。
「ああ、そうか」
その瞬間、リディアはすべてを理解した。
幼いころ、婚約を結んだばかりのアレンの言葉が浮かんでは消える。――大きくなったらリディアを守れる騎士になりたい。あの言葉は、アレンの「優しさ」でしかなかったのだ。
「わたくしが間違ってたんだわ」
そう思うと、いきなり心が軽くなった。
――すべては、自分が悪かった。
優しい人と結婚したい。そんなバカみたいなことを夢見たせいだ。
「優しい婚約者なんて、いらないわ」
リディアの言葉は、美しい演奏に、溶けて消えたのだった。