【番外編・前編】ふたりをくっつけるつもりが……
前後編の2話になります。
時系列は第69話と最終話の間です。デボラとシスレー侯爵がマムート王国から帰って来てしばらくのこと。
タイトルからわかるかと思いますが、二人はまだ、もだもだじれじれです。夫婦が本当の夫婦になる話を期待していた方には申し訳ありません。
執務室の扉がコンコンと控えめにノックをされる。
「旦那様、よろしいでしょうか」
ローレン夫人の声を聞き、ゲイリー・シスレーは心の中だけで呟く。
(ああ、もうそんな時間か)
彼は複雑な気持ちを胸に抱いたまま、扉と窓にちらりと視線を走らせた。窓の外は全てを呑みこみそうなほど真っ暗の夜の世界だ。外を確認した目を部屋の中に控えていたアシュレイに戻すと、彼は心得たとばかりに小さく頷いて扉を開ける。
開かれた扉の向こうには、輝かんばかりに美しい女性が立っていた。
湯浴みを済ませた後なのか、普段は結っている髪を下ろしている。赤い艶のある髪の毛は滝のように流れ落ち、彼女の身体の周りを縁取っていた。
髪と同じ深紅の睫毛は伏せられていた状態からゆっくりと上がり灰色の目が煌めく。首や額は抜けるような白い肌だが、頬は上気して淡い薔薇色に染まっていた。
「侯爵様、おやすみの挨拶を……」
「ああ」
執務室に入ってきたデボラを迎え入れるべく、シスレー侯爵も席を立つ。
「……」
「……」
向かい合う二人にほんのりと温かくも、もどかしい空気が流れる。デボラは頬を染めてはいるものの、何も言葉を出せずにちらちらと侯爵のほうを時折見るばかりだ。逆に侯爵はそんなデボラを優しく見つめたが、やはり何とも言えず無言のままだった。
侯爵が黙ったままなのには訳がある。この後の行動をどうすべきか……正確には、デボラの「おねだり」をどう躱したらいいかわからないのだ。デボラが恥ずかしがって「おねだり」をしないでいてくれたら一番良いのだが、と淡い期待にすがっている状況である。
だが、彼の淡い期待は露と消える。恥じらいつつもデボラは侯爵のほうを改めて真っ直ぐ見つめると、口を開いた。
「侯爵様、おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
「その……今夜も、してくださいますか?」
そう訊かれては否とは言えない。ゲイリー・シスレーはデボラを傷つけたくないから。彼は「仕方ない」と心の中でまたも呟き、手を伸ばした。
彼女の頭に触れると、本物の絹のような滑らかな感触が手指に伝わる。
「……」
ゲイリーはその手触りを楽しまないよう、無心を心がけて彼女の頭を撫でた。デボラは目を閉じて幸せそうにしている。
何度か頭を撫でると、彼はデボラから一歩離れてもう一度「おやすみ」と言った。デボラの大きな目がぱちりと開き、そしてそれはすぐに嬉しそうに細められる。ふわりと花開くがごとく、美しい笑顔が咲いた。
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
デボラは挨拶を終えると部屋を出ていく。その横でローレン夫人が意味ありげに、じとりとシスレー侯爵を見てから扉を閉めた。
……意味ありげというか、多分こう言いたいのだろう。
「旦那様、もう何度目ですか? わざわざデボラ様に言わせてからでないと頭を撫でないとは、デボラ様が少々お可哀想に思えますが」
驚いたことに、ゲイリーが考えた言葉と全く同じセリフが横から飛んできた。アシュレイが言ったのだ。ゲイリーは戸惑いながらもアシュレイに返答する。
「いや、でもな。私が彼女の気持ちに応えられない以上、あまりスキンシップを取るのはどうかと思うんだ」
デボラの「おねだり」とは、寝る前にゲイリーに頭を撫でて欲しいというものだった。マウジー公爵邸の寝室で「覚悟してくださいませね」と彼女に言われた後、どんな風に迫られてもゲイリーは断るつもりでいたのだ。だが、頭を撫でろは想定外だった。
「あの、私が秘密をお話した時のこと、覚えておいででしょうか……あの時に侯爵様が頭を撫でて下さって、私とても嬉しかったんですの。それでまた、撫でていただけたら……と」
そうデボラに言われて、最初の一回はついうっかりと「ああ」と安易に応えてしまったのだが……。まさかそれが毎晩の「おねだり」になるとは思いもよらなかった。
アシュレイはそんな彼の気持ちを知ってか知らずか、はぁと強めに息を吐く。
「スキンシップ、ですか? 旦那様、私などが口を挟むのは差し出がましいと重々承知ですが……」
若き執事長はそれまで職位に相応しい上品な言葉遣いだったが、もう一度息を吐いた後はがらりと雰囲気が変わった。
「……別に抱きしめて口づけしてくれと言われているわけでもなし、頭を撫でるくらい大したことじゃないでしょう。毎回恥じらいながら『してくださいますか』って言ってるのを見ていると、流石にこちらも気の毒な気持ちになりますよ」
「しかしアシュレイ、知っているだろう? 私はデボラ嬢をそういう目では見られないんだ」
「旦那様がデボラ様を妹のように思われるのはご自由ですがね。それこそ兄代わりの立場だって、頭を撫でるくらいはすると思いますが?」
「……」
ゲイリーは閉口した。少し前までデボラを敵視していた執事長は、今やすっかり彼女の味方であるようだ。まさか主人の自分がアシュレイにこんなことを言われるとは……と、彼は眉根を寄せた。