第63話 私を愛する必要はありません
二番目の兄、リロイの考えた筋書きによりアーロンは「不治の病を隠して婚約破棄の芝居をした王子」、デボラは「和平のため、自ら進んで人質となった聖女のような娘」という役割を与えられたと馬車の中で聞いている。
だが彼女が隣国へ渡った後、その筋書きが民衆の間で非常に受けが良かった――――リロイや王家の予想を遥かに越え、小麦の不作も手伝って「聖女を取り戻せ」と一部の民が声をあげるほど――――とは知る由もなかった。
デボラはシスレー侯爵の屋敷から出られず外の情報を与えられないのだからこれは当然だ。けれども少ない情報から様々なことを推測し、可能性を拡げるのは彼女の得意なことのひとつである。
(あの手紙は毒薬のこと以外は嘘しか書いていないと思っていたけれど『領民や、王都でも君の帰りを待つ人はとても多い』という部分は本当なのかもしれないわ)
王家からあのメロドラマじみた馬鹿馬鹿しい嘘が発表され、それが民衆に信じられたどころか同情を買い、多くの人が彼女の帰りを望むようになったのなら。
王家と公爵家にとってはまずいことになったものだ。デボラがフォルクスから帰ってくれば、真相が漏れる日々に怯えることになる。かと言って民の意見を無視し続けるのも外聞が良くないから、表向きは彼女を取り戻すよう努力するフリをしなければならない。
だから、デボラがフォルクスで死ねば全てが丸く収まるのだ。マムート側としては戦後賠償金の支払いを打ち切る言い訳もできて一石二鳥となる。
(……ああ、帰ることも許されないわ!)
デボラの視界は本で遮られ薄暗い。そこへ更に絶望が暗く帳を下ろす。
これではリオルドに「祖国へ帰して欲しい」と頼み、聞き入れられたとしても無駄だと悟ったのだ。
デボラは小さな頃からオズマやリロイの思考をよくよく知っているから、彼らの立場になって考えてみればいい。
彼女が祖国に帰れるとなれば父や兄はどういう策略を練るだろうか。おそらく国境でデボラの身柄をフォルクスからマムート側に引き渡された直後、秘密裏に幽閉され殺されるだろう。
そして暫く経ってからこう発表すればいい。
『デボラ・マウジー公爵令嬢はフォルクス王国の侯爵邸で虐げられていた。ギリギリで救いだしたが既に精神を酷く病んでいて、自宅療養の甲斐なく自ら命を散らした』と。
民の不満を全て隣国へ向け、押し付けるために。
彼女の身にゾッと戦慄が走る。自分が殺されることへの恐怖もあったが、何よりも彼女をおののかせたのは。
シスレー侯爵家の皆に……あの優しく温かい、デボラにとって大事な人たちに不名誉な言いがかりをつけられることだった。
(それだけは駄目よ。絶対に。ここの人たちをこれ以上傷つけては駄目!!)
デボラは顔を隠した本を持つ手にぎゅっと力をこめる。身体は自然と小刻みに震えていた。
それを見たシェリーが声をかける。
「ほら、デボラ様ったら変なところが律儀なんだから。ローレンさんに悪いと思って無理して本を読もうとしたんでしょう!」
彼女は益々あさっての方角に勘違いをしてくれたようだ。
「でも辛い思いをしてまで読むものではないです。他のことをしましょうよ!」
「……」
デボラはふーっと細く長い息を吐いた。そして本から顔を放し、愛想笑いとわかっていても笑顔を作る。
「そうね。新しい刺繍の図解でも作ろうかしら」
「それが良いですよ! そうしましょう!」
シェリーはぱっと顔を明るくし、いそいそと本を片付けようとする。デボラも本を閉じようとしたその時。ページの端の単語に目が留まった。
恋愛小説には幾度となく出てくるありふれた単語の『愛』の文字。それにたまたま目が留まったのはただの偶然だろう。だが彼女にとっては今後の運命を分ける、重大な文字だった。
「『愛』……」
「えっ、なにか?」
シェリーに聞き返されて、デボラは愛想笑いのまま首を横に振る。
「何でもないわ」
そして本をシェリーに手渡した。『愛』の言葉から様々な事柄に思いを巡らせて。
◆
その日の夕食が終わりかける頃。デボラは口を開く。
「侯爵様、この後少しお時間を頂けますか? お話ししたいことがあるのですが」
「大丈夫だよ」
「では後程、執務室にお邪魔致します」
「ああ」
先日のハンカチの時とは違い、シスレー侯爵は執務室で話したいと切り出されても疑問に思わなかった。今夜のデボラの様子は何もかもが違うからだ。
公爵家から持ち込んだ豪華絢爛なドレスを身につけ、いつも喜んで完食する食事にはあまり手を付けず、蝋燭のオレンジがかった光に照らされていても顔色はなお青白い。その表情は固く、思い詰めているのがわかる。
やはり今日、あの手紙が届いたことが原因かと侯爵は思う。そして、心に何か抱えた彼女がそれを一人で抱え続けるのではなく、自分を頼って相談してくれるならば嬉しいとも。
彼は夕食後に執務室で彼女を待った。既に茶と酒の用意を頼んでおいたので、デボラが執務室に現れるとそちらを置いたローテーブルを指し、声をかける。
「何か飲まないか?」
「いいえ……あの」
デボラは一瞬躊躇ったが、すぐに顔を上げて真っ直ぐ侯爵を見据えた。
「恐れ入りますが、人払いをお願いできますか」
これは流石に予想外だった。侯爵も、その場にいた執事長とメイド長もやや驚く。
「この二人には聞かせられない話だと?」
「!……あ、あの」
デボラはきゅっと美しい眉根を寄せ、辛そうに言葉を紡ぐ。
「私はアシュレイも、ミセスローレンのことも信頼しています。でも、どうしても今は二人だけでお話をしたいのです。我が儘をお許し頂けませんか?」
「……わかった。だが二人にはすぐ外に控えていて貰う」
「勿論ですわ」
シスレー侯爵が二人に目線を送ると、アシュレイとローレン夫人は小さく頷き部屋を出ていった。扉がそっと閉められると侯爵はデボラに来客用の長椅子を勧め、彼自身も一人用の椅子に腰掛ける。彼女の緊張を少しでもほぐすためには自分もリラックスしていた方が良いかと思い、手酌で酒を自分のグラスに注ぎながら軽い調子で尋ねた。
「で、どうしたんだい?」
「……お願いがあるのです」
「なんだい? 私に出来ることなら聞こう」
「私に、子供を授けてください」
侯爵は持ちあげかけたグラスを取り落とした。それはゴッと鈍い音を立ててローテーブルに底面を叩きつけ、中の琥珀色の液体を散らす。だが、それを気に掛けている場合ではない。
「……今、何と?」
「夫婦の営みを請いました」
見た目だけなら女性としての色香も十分に備わっている彼女は、色気の欠片もない硬い口調と表情で言い放った。これでは色仕掛けとは到底言えまい。
「デボラ嬢、言っただろう。私は君を……」
「ええ、侯爵様が私を愛する必要はありません。ただ、子を成すためだけの行為とお考え下さい」
「いや、君は人質で……」
「私に手を出しても今より価値は下がりません。寧ろ、私が侯爵様の子供を産めば価値は上がります。その子供は二国間の和平の印となるのですから」












