第61話 オズマの真意
『愛する妹へ』
アシュレイがゆっくりと手紙を読み上げる。
『デボラ、君が隣国へ旅立ってからもうすぐ四ヶ月になるだろうか。俺たち家族は君のことを考えない日はない。元気か?』
シスレー侯爵はデボラの様子を観察していたが、彼女は人形のように表情ひとつ変えずアシュレイの言葉を聞いている。
『辛い思いはしていないだろうか? 君の居ない家は灯りが消えたように暗く寒々しい。妹よ、君は我が公爵家の中心で星のように輝く赤い宝石だった』
ふっ、とデボラの口の端が吊り上がる。冷たい表情も相まって、皮肉な笑みを漏らしたように見える……が、それは一瞬だけの事で、彼女はまた人形のような姿に戻ってしまった。侯爵は今のは自分の思い過ごしだろうかと考える。
『君が初めて一人で遠方で公務に行くことになった時の事を思い出したよ。不安気な君に俺が何と言ったか覚えてる? あの時は無事に帰ってきてくれてどんなにホッとしたか。でも今は、君が帰れる日は遠いままだ』
アシュレイは感情を殺し機械的に手紙を読み上げているが、それでも文章からは妹を溺愛し、心配する兄の様子が伺い知れた。
『公爵家だけではないよ。領民や、王都でも君の帰りを待つ人はとても多いんだ。いつか君を取り戻せるよう、父上も俺たち兄弟も尽力している。もう少し耐えていて欲しい』
最後まで読み終え、小さく呼吸を整えてから執事長は「以上です」と付け加えた。
「……ありがとうございます。では返信を今この場で書きますわ」
「ああ、ではこれを」
シスレー侯爵が引き出しから便箋を取り出しペンの横に置くと、サッとローレン夫人が進み出てそれをデボラに渡す。特にペンは、まるで小さな子供か動きの不自由な老人を相手にするかの様に直接手に握らせた。
そのやや仰々しい態度に、当事者のデボラは勿論、侯爵や執事長も皆不思議に思ったが、すぐにそれは流される。
デボラはさらさらと簡潔な返信をしたためた。
『オズマお兄様へ。お手紙拝見し、お気持ちが伝わってきました。私は今とても幸せです。どうぞご心配なさらず』
その文面を見て、僅かに侯爵の眉が上がる。
「これだけでいいのか?」
「ええ、充分だと思います」
兄が寄越した手紙の熱量を考えるとなんともアッサリとした……というよりも、素っ気ない返事だ。だが、侯爵はそれ以上は質問を重ねなかった。
「では、これを国境まで届けておこう」
「ありがとうございます。では、失礼致します」
デボラは礼を言うと執務室を出ていく。扉が閉まると侯爵は執事に問うた。
「アシュレイ、どう思った?」
侯爵の横から、微かにふっと息が漏れる。多分軽く吹き出したのだろう。
「思い出しますね。デボラ様が初めてこの屋敷に来た時の事を。私は確か『とんでもない女狐』と言ったかと」
「……ああ、そうだったな」
「あの時程ではありませんが、今日のあの方の態度には何かあるとは思いましたね」
「やはりそう思うか」
侯爵は自分の考えが間違っていなかったことに安堵するような、それでいて残念なような複雑な感情を認めた。
しかし、もしもアシュレイが自分とは違う意見だったとしてもそれで良かったとも思えない。あまりにもちぐはぐな印象は拭いきれないだろうから。
幼い頃から父親に厳しい教育を受けてきたと言っていたデボラ。その為に感情表現が乏しかったが、最近は自分の殻を少し破りかけているようにも見える。だが先ほどの彼女は兄の手紙に対して以前のように無表情に近い反応だった。
それに彼女がこの国に来たのは本人の意思もあるが、それ以上に父親の意向だろうと侯爵は考えている。彼女の美しさと有能さがあれば国内で政略結婚の手はいくらでもあっただろうに。
だが手紙の内容ではデボラを取り戻そうとしている、とあった。
(彼女を送り込んだことを後悔しているのか……?)
一部の民衆が「奪われた聖女を取り戻せ」と言っているそうだが、その意見が凶作によって思いもよらず拡がっているのかもしれない。
あるいは、今までのデボラの話や態度はまやかしで、やはり彼女はスパイなのかもしれない。『ご心配なさらず』と書いたのは、上手くシスレー侯爵家に入り込めたという意味ではないか。
(……いや、でもやはりそれも違う)
ゲイリー・シスレーは一度目蓋を閉じ、また開いた。そうだとしてもやっぱりちぐはぐなのだ。そのちぐはぐな彼女の理由を考える上で、何か大事なピースが抜け落ちている……あるいは、隠されているとしか思えない。
「失礼致します」
そこで執務室の扉を開けて入ってきたのはローレン夫人だった。
「ああ、ミセスローレン、どうした?」
「ええ、あの、デボラ様のことなのですが」
「彼女に何かあったのか?」
「あ、いいえ、今はシェリーに任せております。大したことでは無いと思うのですが念のためお伝えしておきたく」
「何だ?」
「先ほどのデボラ様はとても動揺されたご様子でした」
「動揺……まあ、突然祖国から手紙が来たと言われればそうなってもおかしくないな」
「いえ、違います。おそらくですが手紙を読んでいる途中からです。それで……私、デボラ様の手を握ってみたんですの」
侯爵は、先ほどのローレン夫人のやや不可解な行動の意味がわかった。夫人は真っ直ぐに侯爵を見据えて言う。
「デボラ様の手が、とても冷たくなっておられて。気を失ってしまうのではと思うほどでした」
◆
「シェリー、私は旦那様のところへ戻りますのでデボラ様を頼みます」
「はい、ローレンさん」
デボラの部屋まで付き添っていた夫人がシェリーに引き継ぎをして出ていったのを見て、デボラは内心ホッとした。こう言っては悪いが、今から密かに確認したかったことをシェリーが相手ならバレずに上手く出来そうだからだ。
「シェリー、兄から手紙が来ていたの」
「えっ、そうなんですか!?」
「それでね、なんだか懐かしくなってしまって……我が儘だけれど、ちょっと以前のドレスを着てみたくなったわ」
「まあ、そんなこと全然我が儘じゃないですよ! お手伝いします!」
デボラはシェリーの手を借りて、いつもの簡素なワンピースドレスから豪奢なドレスに着替えた。宝石類も幾つか選んで身に付けると、実に華やかで眩しいほどの美しさである。
「きゃあ、やっぱりデボラ様はとってもお綺麗ですね!」
「ふふ、お上手ね」
「違いますよ! 本当に素敵です」
「ありがとう」
デボラは微笑むと窓際に立った。シェリーが宝石箱を片付けようと、自分に背を向けて隣の衣装部屋に入った一瞬の隙を狙い、左手に着けた紅玉の指輪を触る。石を強く押し込むと、小さくパチリと音がして留め金が外れる感触が指先に伝わった。今度は石を引いてみる。それはあっさりと動き、石の台座が開いた。
(ああ……)
デボラはすんでのところで声を呑み込む。宝石箱に入っていた、見覚えの無い紅玉の指輪。それは仕掛けつきで中に小さな物を隠せる指輪だった。中にあったのは小さな黒い丸薬が3つ。その丸薬には覚えがある。
『君が初めて一人で遠方で公務に行くことになった時の事を思い出したよ。不安気な君に俺が何と言ったか覚えてる?』
兄の手紙には暗号がやはり隠されていたのだ。嘘の愛情を込めた文面に、彼女しか知りえない情報を織り混ぜてオズマの真意を覚ることが出来るように。
オズマは、デボラにこの毒薬で自殺しろと指示をしてきたのだ。












