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第13話 デボラの葛藤

 ◆



 デボラは談話室にいた。勿論ローレン夫人の付き添いの上で。

 初めてこの屋敷に来た日、ここでシスレー侯爵と話をした時に、壁に幾つかの肖像画がかかっていたのを覚えていたのだ。


 彼女は壁を眺め、その中で小さな楕円型の額縁に納められた、二つでひと揃いの()に目を留める。

 向かって右の額の中には青い瞳の若く雄々しい男性が斜め左を向き優しげに微笑んでいる図が描かれている。彼の視線の先、左側に据えられた額縁の中には少女に近いほど若く可愛らしい女性が右側に向かい、頬を染め、やはり微笑みを見せていた。

 この二つの画は、額縁越しに画の中の二人が見つめ合った形になるよう壁に掛けられている。


 紛れもなく、若き日のゲイリー・シスレー侯爵と、その妻、マグダラを描いたものであろう。


 マグダラは、どこにでも居そうな焦げ茶の髪と瞳にふっくらとした頬を持ち、可愛らしくはあるが抜きん出た容姿ではなかった。だが画の中の彼女からは聖母像のような慈しみと温かさをどこか感じ、デボラはそっと深紅の睫毛を伏せる。


(前の奥様は皆を愛し、皆に愛された人だったのね)


 シェリーからはあまり聞きだせなかったが、おそらくそういう事なのだろうとデボラは感じていた。デボラはマムート王国では何人かの令嬢に慕われてもいたし、表向きは仲の良いと言える人間もいた。だが愛されているとなると話は別だ。


 両親からは家の繁栄の為に完璧な令嬢である事を常に求められていたが、それを達成して褒められる事はあっても心から愛されている自信はなかった。兄達もデボラを愛してくれていたかはわからない。

 そして何より、将来夫婦となる予定だったアーロン王子からはひとかけらも愛情を感じた事はなかったのだ。だが彼に不満を持つことはなかった。

 なぜならそれがデボラに割り振られている役割で、彼女はその役割を完璧に全うする事こそが一番肝要だと思っていたし、デボラ自身がアーロンを愛する事はなかったからだ。


 いや、アーロンに限らず「愛する事」がデボラにはよく理解できていないのかもしれない。失敗をしても笑って許された事が無いからだ。シェリーの前で二度も失敗をしたのに彼女が笑って優しくしてくれた時、デボラは酷く戸惑った。

 そして、ますます居たたまれなくなったのだ。


(私って、ここでは本当に役立たずの穀潰しなんだわ)


 嘗てマムート王国で磨いていた領地経営や政治の知識、茶会や夜会での立ち居振る舞い、そして彼女の美しさ。それがシスレー侯爵家ではなんの役にも立たない。彼女の価値は人質ということだけなのに、本当はそれすらも虚偽なのだ。その事実が彼女の心を炙るようにじりじりと焼き、焦らせる。ここに居る価値はない、居てはいけないと思ってしまうのに、同時に逃げ出せないとも考えてしまう。


「……ミセスローレン、お願いがあるの」

「はい、何でしょうか?」


 壁の画を見つめたまま、突然デボラが言い出した次の言葉にローレン夫人は吃驚した。


「この間の冗談、本当にすることは出来ない? ……私、メイドのお仕事を習ってみたいわ」



 ◆



 貰っていた午前休を消化し、街から戻ってきたアシュレイは執事服に着替え、屋敷をひと周りしている最中に信じられないものを見た。


「あ、デボラ様、まだ曇りが残ってますね」

「……ちゃんと磨いたつもりだったんだけれど。皆の磨き方と何が違うのかしら……?」

「うーん、お行儀悪いですけど、ハアって息を吹きかけちゃえばいいんじゃないですか?」

「アハハハ! シェリー、そんなのデボラ様に教えちゃだめよ!」


 それは、食堂でシェリーや他のメイドに囲まれたデボラが銀器を布で懸命に磨いている姿だった。


「な……!?」


 叫びそうになったアシュレイはすんでのところで声を呑み込み、傍で立っているローレン夫人の顔を見る。夫人は一応彼女たちを見守っている体ではあるが、表情は憮然としたものを僅かに残していた。アシュレイは夫人に近づき、声を潜めつつも責める様に訊く。


「ミセスローレン、これはどういう事ですか!?」

「デボラ様がやってみたいと仰るので。旦那様の了解も得ています」

「旦那様が!?」


 若き執事長は興奮で顔を染め、踵を返すと勢いのままに主人の執務室へと向かった。


「ただいま帰りました! お休みをありがとうございました!」

「アシュレイ、ご苦労。スワロウは元気だったか」

「ええ。引退してからの方が若返ってますよ! ……そんな事より、何故デボラ様がメイドの真似事をしているんですか!?」

「やる事が無くてつまらないからだそうだ」

「……は? まさか、マムート王国では公爵令嬢でも下働きをするのですか?」


 シスレー侯爵は面白そうに微笑む。


「いやいや、勿論そんな事はない。人質としてやる事が無くただの穀潰しでは気が咎めるから、せめて下働きの経験でも積んでみたいそうだ。令嬢の気まぐれというところかな」

「……!」


 アシュレイの顔が更に赤くなり下唇を噛んだ。


「……それは、このシスレー侯爵家が人質ひとりを預かる事も出来ないくらい困窮しているだろうと言う侮辱ですか!?」

「デボラ嬢がそんな嫌味を言うご令嬢に見えるか?」

「あの無表情と、作り笑いしか見せないようではありえる、としか」


 シスレー侯爵は、デボラが先ほど相談に来た時の顔を思い出し、笑みをもう少しだけ深めた。


「無表情、か。今日は少なくとも違ったかな」


 確かに表情は乏しかったが、侯爵をまっすぐに見据えた灰色の瞳は、今までのガラス玉のような質感とは違い、生命が宿っていた様に思えたのだ。


「まあ、たどたどしくはあったが、何か役に立ちたいと言う言葉に嘘は無いと思えたよ。疑うなら彼女が仕事をしているところを見張ればいいんじゃないかな」


 たどたどしく、という言葉にピクリとアシュレイは反応する。彼の脳裏にスワロウの言葉が蘇った。


“例えばその花嫁は少しここが弱い、とかな。“

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