七夕の翌日
北陸新幹線で大宮まで向かい、そこで東北新幹線へと乗り換え、青森へと北上する。
彼女の乗った新幹線が見えなくなると、彼は人のまばらな改札を抜け、無駄に広い階段を下りて、駐車場に停めた中古の軽自動車に乗り込んだ。
彼女を連れ去っていったあの線路は、住宅街のさらに向こう、影を纏い始めた山の連なりを通り抜け、彼の知らない場所へと続いている。
ここ数日は楽しかった。
朝も昼も夜も、ずっと笑っていたような気さえする。
だから、再び来るひとりぼっちの夜が、彼にはとても恐ろしいもののように感じた。
彼が感じていた世界は温湿度や重力、空気の組成に至るまで、ものすごい速さで全く別の世界へと組み替えられていく。
この急激な変化に自分の心は耐えられるのだろうか。彼は途方もない不安を感じていた。
乱れる心を紛らわすために、行きつけのスーパーに向かい、適当な惣菜と焼くだけで食べれる味付け肉、そしてちょっと贅沢な高めのビールを2本買う。
しかし、2人で夕食の材料を買ったそのスーパーにすら、所々に彼女の残滓が漂っているような気がして、彼はそれらから目を逸らした。
部屋に戻る。
日はすでに暮れかけていて、日当たりの良くない彼のアパートは一足早い夜を迎え入れていた。
玄関の照明を付ける。部屋は彼女がいたあの瞬間のまま、時が止まっていた。
テーブルに置かれたままの二つのコーヒーカップ、出しっぱなしのマンガの本、床に敷かれた客様の座布団、ほんの少しだけ漂っている自分以外の匂い。
窓を開けようとして思い止まり、結局彼は照明もつけないまま寝室の敷布団に倒れ込んだ。
一人用の布団に枕が二つ並んでいる。
いつもはない、少し新し目な枕に顔を埋めて、彼は深呼吸をした。
何だか全てが虚しく感じた。
幾度となく繰り返される「始まり」と「終わり」、そして「再会」と「別れ」の先に、本当に悲しみのない未来は訪れるのだろうか?
その不透明さを、二人でいる間は忘れる事が出来た。
しかし一人に戻ると、それは夜の闇を溶かし込みながら、否応なくその濁度を高めていく。
スマホの着信音が鳴った。
彼は放り上げていたスマホを拾い上げ、やけに眩しく発光した画面を見た。
『枕の下、見て!』
彼女からのLINEだった。
彼は枕の下に手を入れる。
指先に固いものが触れたので引き抜くと、それは布地で作られた小さなキーホルダーだった。
赤い着物を着た、昔話に出てきそうな女性。
再び着信音が鳴る。
『それ、これとお揃いなの』
添付された写真には、半分見切れた彼女が写っていた。新幹線の中で撮ったのだろうか。その右手には似たようなサイズの青い服を着た男のキーホルダーがぶら下がっている。
『何これ?』彼が返す。
『織姫と、彦星。お土産で買ってきてたんだけど、渡しそびれてて』
『ふーん、ありがと』
『あれ? 文章から感動が伝わってこないよ? 気に入らなかった?』
『そんな事ない。ありがと』
『私だと思っていつも眺めてあげてね』
ははは、と彼は笑った。
うつ伏せから仰向けになって、小さなキーホルダーを目の前に掲げる。
薄暗い部屋の中でも、そのキーホルダーはやけにはっきりと見えた。相変わらず濁った未来だけれど、その先にある目指すべき何かの存在も、今ならはっきりと認識できるような気がする。
『たぶん、21時には家に着くと思う』
『お疲れ』
『そしたら、また電話しよ』
今はまだ、2人を隔てるように天の川が流れている。
しかし同じ流れを介すからこそ、互いの起こす振動は波となり、電波となり、向こう岸へとつながっている。
『了解』
彼は布団から起き上がり、照明を付けた。
彼女の残滓が残る部屋は、別れの悲しみだけではなく、喜びの記憶もまた呼び起こしてくれるような気がした。
幕田も大学卒業してから長い間、今の妻と遠距離でした。当時は未来が見えずに悩みましたが、少しずつ形作っていった結果、今に至る気がします。同じ悩みを抱えている方々へ、少しでも励みになればと思います。