8.酔狂
夢と現の間を行き来しながら、子季は自分がどこかに運び込まれたこと、不思議な老婆に手当てをしてもらったことを、おぼろげながら理解していた。
体中にぬるぬるしたものが塗りたくられ、その上に包帯が巻かれている。
口元に匙が運ばれた時、薬だと分かったものの、苦かったので舌で押し返した。
――ふふ。
優しい笑みを含んだ声が、花を揺らす風のように、子季の耳元を掠めた。
――これは薬だから、苦くとも飲め。
もう大丈夫だと子季に告げた、あの涼やかな声だった。
片方の目は包帯で覆われ、もう片方も僅かしか開かない。「ほら」とか何とか、愛おしげな声だけが聞こえ、子季は渋々口を開けた。
包み込むような男の声音も、優しく触れてくる匙も、染み入るように心地よかったが、薬はやっぱり頂けなかった。
随分たくさん飲まされて、もういいだろうと口を閉ざすと、男は優しく励ますように「後もう三口だ」と言い、「全部飲んだらそばにいてやる」と言った。
子季は大人しく従った。
その後のことは記憶にない。多分眠ってしまったのだろう。
昼も夜もなく、痛みと熱と浅いまどろみの中を、子季はそれからしばらく揺蕩った。
声の主は頻繁にやってきた。
包帯や着物を替えている間は入ってこなかったが、この男は一体、一日に何回来ているのだろうと子季が思うくらいには来た。
男は横たわる子季に白湯やら薬やらを与え、「すぐに良くなる。頑張れ」と励まし、包帯がほどけかけていれば、優しく巻き直した。
「何かな、これは」と思いながら、子季はうつらうつらと男の世話を受けた。
こういう係の人なのだろうか。
部屋の調度や寝具の質から考えて、子季はかなり富貴な家の世話になっていた。人間の世界においては、金持ちの家には侍女とは別に、こういう係の人がいるのかもしれない。
仮にそうだとしても、家の主人の意向もなしに、係の人が来ることはないと、この時は思い至らなかった。
数日が経ち、子季が自力で身を起こせるようになると、男は用意していたふかふかの墊子を子季の背の後ろにあてがい、粥の匙を取った。
子季に食べさせながら尋ねる。
「してほしいことはあるか。何か食べたいものはあるか」
微かに首を振りながら、「何も」と言おうとしたが、喉が潰れて声が出なかった。ものを飲み込む時に少し痛いなと思っていたが、喋れないほどだとは思わなかった。男が老婆を振り返る。何かあるとすぐにこうする。老婆が「喉も多少焙られておりますが、薬を飲み続ければ、そのうち喋れるようになりましょう」と面倒臭そうに告げると、ほっとしたような表情になった。
「喋れるようになったら、お前の名を教えてくれ」
子季、とほとんど吐息のような声で、子季は痛みを押して告げた。男が物凄く知りたがっているのが伝わってきたからだった。
「子季……子季か」と、男は噛みしめるように繰り返し、「良い名だな」と目を細めた。
子季はのろのろと右手を上げ、人差し指を男の胸に当てた。「お前は?」と言う代わりである。幸い指はすべて火傷を免れていて、そこだけは不自由はなかった。
「璇だ。子季」
璇とは美しい玉のことであり、星の名でもあった。涼やかなこの男に似合いの名だと思った。「良い名だな」と言ってやれないのがもどかしく、子季は璇の頬を指でなぞった。
女と見紛うほどではないが、璇は整った綺麗な顔立ちをしていた。
子季を見つめる涼やかな瞳は、あまりに澄んで美しいせいか、懐かしさに似た思いすら子季に抱かせる。どういう訳か、皆とは違って胡服を好んで着ているが、それがまた彼の軽快な雰囲気とよく合っていた。
次に来た時、璇は蜂蜜の壺を携えていた。
さすがに匙くらいなら自分で持てるようになっていたが、蜂蜜は垂れるからと璇が言うのに子季は甘えた。とろりとした甘さが舌と喉を潤し、子季がうっとりと目を閉じる。目を閉じたまま口を開けると、次の一口が心得たように運ばれてきた。
「美味いか」
璇、と吐息で呼び、聞き取ろうと顔を寄せる璇の袖をつかんで、ありがとう、と言った。
璇は子供のように破顔した。
「礼など不要だ」
こんなお土産があってもなくても、いつしか子季は、璇が来るのを心待ちにするようになった。
少なくとも、「明日はいつ来られるか分からないが、お前のことを忘れた訳ではない」とすまなさそうに告げられた時、「そんな」と思ってしまうくらいには。
包帯を替えたり、薬を用意したりしてくれるのが、洪巫婆と彼女の侍女たちで、部屋の掃除や身の回りの世話をしてくれるのが、恐らくこの家の侍女長であろう、年かさの女だった。
この女は手際は良いが、子季のことを歓迎していないのがはっきりと態度に現れていた。元より押しかけの身であれば、「すまないな。走れるようになったらすぐに出ていくし、この家に相応の礼はしよう」と思うのみである。犬をけしかけられないだけましだった。
璇も洪巫婆もいない午後、年かさの女が子季の部屋に入ってきた。子季が寝たふりをしていると、女は「手伝いなさい」と誰かを中に引き入れた。
寝台の前に掛けられた紗の奥から、子季がこっそり薄目を開けて見ると、若い従僕が箒を押し付けられていた。年かさの女は布を取り出し、棚の上にある香炉やら、扶桑樹を象った燭台やらを流れるような手つきで拭き始める。
女が上品なため息をついた。
「あの方の酔狂にも困ったものね」
「何かの世話をするのがお好きなのでしょう。そう言えば、一時期、庭いじりにも凝っておられたようですし」
男の声はやや早口だった。女の機嫌は損ねたくないが、迂闊に同調も出来ぬといったところ。
「あれは凝っていたという訳ではないでしょう」
女は鹿の置物を拭きながらぴしゃりと否定した。
「……囲うおつもりかしら」
「あのご様子では、そうかも――」
「止めて!」
自分から話を振ったにもかかわらず、女は悲鳴のような声を上げて男の言葉を遮った。
「こんなことが良家のお嬢様方に知れたら、本当に今度こそ、あの方に嫁ごうなどと誰も思ってくださらなくなるわ。ただでさえあちら様より分が悪いのに」
紗の奥で子季が二人の会話を身じろぎもせず聞いている。
ここへ来てようやく子季も理解していた。
「あの方」が誰を指しているのか。
係の人などではない、押しも押されもせぬこの家の立派な若様が、どこからか連れ帰った素性の怪しい娘を家に住まわせ、何くれとなく世話を焼いている。こんなことが口さがない人間たちに知れたらどうなるか。
女が子季を疎ましく思うのも、当然のことだった。
「あんな醜い娘のどこが気に入ったと言うの⁉ どこの誰とも分からぬ上に、二目と見れぬご面相ではないの!」
「私の客人のことを言っているのか」
淡々とした璇の声がした。
年かさの女と若い男と子季が同時にぎくりとした。