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7.甘い匙

 璇はあっさりと頷き、従僕を連れて湯浴みに向かった。上手いなぁ……と蘭舟が思っていると、謝執事のぎょろりとした目に捕まった。


「あの娘は何者だ」

「さあ……どうやら襲われていたところを、公子がお助けになったようですが」


 蘭舟の口から勝手に「九尾のお嬢さんらしいですよ」などとは言えない。ここはすっとぼけることにした。


 まさかこんなことになるとは、予想もしていなかった蘭舟である。


 軒車を引き連れて戻った時、「まだ息がある。急げ」と言われたのには驚いた。あれでまだ生きているとは、神仙恐るべし。


 やはりと言うべきか、謝執事は腑に落ちぬ顔をした。蘭舟にも彼の気持ちは分かる。娘の素性もさることながら、璇の態度も不可解なのだろう。


 涼しげな上辺の笑みを浮かべ、何事にも関心が薄い、手のかからぬ公子様。

 それが皆の知る璇だった。


 璇は四刻ほどで戻ってきた。湯上がりの体を白い寝衣に包み、濃い青の袍を肩掛けに羽織っている。扉口からうるさく呼ばわることもせず、大人しく待っている様子がいじらしかった。


 蘭舟が謝執事にこっそり尋ねた。


「もしかして、子供の頃の公子はこんな感じだったんですか?」

「いや、私の知る限り、子供の頃からあんな感じだった」


 謝執事は璇が永逸宮の主となってから、蘭舟は璇の初陣からの付き合いである。謝執事の方が、璇との付き合いは五年ほど長い。


「公子、そこにおられるか」

「いる」

「入られよ」


 璇は神妙な面持ちで部屋に足を踏み入れた。行きがかり上ではあるが、まるで花嫁を迎えるように、自身の宮に用意させた部屋である。


 娘は中央の台から奥の寝台へと移されていた。愛らしい顔や首の大部分に包帯が巻かれている。薄物の下の体も同様であろう。璇は娘の体の前に腰を下ろし、滑らかな右頬に触れた。そこは包帯に覆われていない、数少ない場所だった。


「巫婆」


 巫婆は額から滴る汗を拭って答えた。


「左半身、特に左腕と左の脇腹が酷い」

「そうか」


 あの野原で抱き上げた時から、予断を許さぬ状況であることは璇にも分かっていた。あれほどの傷は戦地でも滅多に見ない。巫婆はよくやってくれたが、朝まで持つかどうかというところだろうか。


 巫婆は億劫そうに続けた。


「治りはするが、痕は残る」


 治るのか、と璇は目を上げた。


「雨で冷やされたのが良かったのじゃろう。あなた様がお連れになっただけあって、悪運の強い娘のようじゃ。轎の下敷きになったと言うが、見たところ骨や臓腑にも異常はない」

「分かった。ありがとう」


 璇が噛みしめるように頷いた時、侍女の一人が煎じ薬を持って戻ってきた。「私が」と璇が薬に手を伸ばす。侍女はびくりと巫婆を見たが、巫婆が何も言わないので、大人しく璇に薬を渡した。


「炎症をとる薬か」

「痛み止めと眠り薬も入っておりまする」

「優しいな、巫婆は」


 出来た男のように世辞のひとつも飛ばし、璇は横たわる娘の唇にそっとさじを当てた。


「ふふ」


 ぺ、ぺ、と舌で押し返され、思わず笑みが漏れた。


「これは薬だから、苦くとも飲め」


 娘の耳元に唇を寄せ、あやすようにゆっくりと囁く。


 その声が聞こえたのかどうか、もう一度匙を当てると、嫌そうなのは変わらないが、今度は大人しく口を開けた。


「……そんなに?」


 二口、三口と娘は匙を受け入れはするものの、毎回変な顔をする。璇は匙に舌を当て、苦さを確かめた。


「何だ。これくらいなら」


 全然思ったほどではなかった。むしろ巫婆も丸くなったものだと思う。


「私が飲まされた薬の苦さは、この比ではなかったぞ……」


 璇はわざと巫婆にも聞こえるように言った。

 忘れたとは言わせない。


 ――何故なにゆえにインチキ巫祝を召し抱えるのか、気になるか。


 仕返しのように苦い薬を飲まされながら、子猫のふりをした虎は、ある日ぽつりと尋ねた。

 竜胆りんどうの花もたわわな秋の午後、その場にいたのは璇と洪巫婆だけだった。


 ――皆が当代一と思っている巫祝を召し抱えれば、私を殺そうとする試みも、きっと減るだろう。


 巫婆は何も答えなかった。

 璇は柔らかな日差しにおっとりと瞼を閉じた。

 幼い体は昼夜を問わず、回復の為の眠りを欲していた。


 その後のことは璇の言った通りとなった。

 成功するより発覚する公算の大きいはかりごとなど割に合わぬ。


 この度のことでは王后、魏氏の侍女が捕らえられ、罪を自白していた。魏氏の生んだ第二公子を大切に思うあまり、邪魔な第一公子を亡き者にしようと謀ったのだという。

 魏氏本人は謹慎で済んだ。侍女の監督不行き届きである。


 璇はどこへ行くにも巫婆の後をついて回っているうちに、巫婆が実は、薬草の知識も医術の心得も、人並み以上であることを知った。と言うより、そうした知識を元に、さも霊験あらたかな巫祝であるかのように振る舞っていたということを、知ってしまったと言うべきか。


 ――これほどの腕があるならば、インチキ巫祝などやらずとも。

 ――食うや食わず、というご経験のない方には分かりますまい。


 同じことをしても、巫祝としてやった方が断然実入りが良いのだということを、巫婆は随分と聞こえの良い言葉で説明した。

 璇は巫婆の言い草に、不思議そうに首を傾げた。


 ――食うや食わずの経験ならあるが。食事がろくに出なかったり、出ても味や匂いがおかしくて食べられなかったり。

 ――あなたは一国の公子様であろう?

 ――公子と言ったところで、子供など所詮無力なものよ。


 璇としては、ただ事実を述べただけだった。巫婆は大きなため息をつき、「これだから宮中は」と呟いた。


 この会話から程なくして、璇は自身の宮を賜った。年齢的には少々早いと思われたが、当代一の巫祝の進言があったのだ。

 璇は巫婆を引き連れて、養い親たる魏氏の晩翠宮ばんすいきゅうから出ていくことになった。


 ――この魔窟から生きて出られるとは。


 花溢れる優美な晩翠宮を外から仰ぎ見て、璇は爽やかに笑った。


 魔窟と呼んだが、璇はここで生まれ、ここで育った。宮の主は最初は璇の母だったが、途中から母の侍女だった女になった。

 母は病死だったと聞いているし、それについて魏氏を疑ったことはない。元は優しく淑やかであったという燕容えんようが今のようになったのは、恐らく権を生んでからだった。


 あれから八年の歳月が流れ、少女と見紛うばかりだった美貌の公子は、月のように涼やかな美男子に成長した。男にしては細身だったが、今の璇を女と見間違う者はいない。


 その涼やかな美男子は今、体中を包帯で覆われた、怪しい娘に夢中だった。


 娘が「もう良かろう」と言いたげに唇を引き結んだ。

 璇はすっかり蕩けている声で甘やかに囁いた。


「後もう三口だ。全部飲んだら、お前が眠るまでそばにいてやろう」


 娘が諦めたように匙の分だけ薄く唇を開いた。


 う……と璇は娘の唇を凝視する。


 これは璇の言っていることを理解してのことだろうか。そばにいてほしくて口を開けたのか。


 「早う飲ませなされ」


 うんざりとした巫婆の声に、手が止まっていたことを気づかされ、璇は慌てて、うとうとと眠りかけている娘の唇に匙を運んだ。

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