6.巫婆と公子様
国境から戻るなり、いずこかへ馬で駆けていった璇公子が、体中にひどい火傷を負った娘を連れ帰った時、彼の住まう永逸宮はちょっとした騒ぎになった。
「公子、これは一体――」
「謝執事、丁度良いところに。扉を開けよ」
当然の疑問を口にする謝執事を顎で使い、璇は用意させた部屋に足を踏み入れる。ずっと腕に抱えていた瀕死の娘を部屋の中央の台に寝かせ、娘を挟んで年齢不詳の老婆と向かい合った。
「巫婆、頼む」
「これはまた。もう諦めなされ」
「巫婆ッ、何を言う」
涼やかな美貌の第一公子が、泣き出す寸前の子供のような顔になっても、洪巫婆は一向に動じなかった。口では冷たく突き放しつつも、娘の呼吸を確認し、ところどころ燃え落ちている娘の着物に躊躇なく鋏を入れ始める。
「男は出ておれ」
顔を上げもせず、巫婆は璇以下、その場に突っ立っている男たちに低い声で言い放った。
「用意した分ではとても足りぬ。清潔な水と蘆薈。どちらも大量に」
「分かった。蘆薈は私が」
そう言うなり、璇が薬草園に駆けていった。蘭舟が影のようにひたと続き、宮付きの従僕二人も慌ててその後を追う。幼い頃より、あの手この手で命を狙われてきた璇を主とする永逸宮は、見事な自前の薬草園を持っていた。管理は無論、洪巫婆であり、何人たりとも巫婆の許可なくして草一本持ち出すことは出来ない。
「お前たちは水じゃ」
閉ざされた部屋の中から洪巫婆の声が響き、従僕たちは尻を叩かれたように井戸へと方向転換した。
「洪巫婆は一体、どこにどれだけの目を持っておられるのやら……」
璇に付き従って走る蘭舟が、首をすくめて呟いた。戦場では怖いものなしのくせに、巫婆のことは意外と本気で恐れている。
「急ぐのは水だ。お前もそっちで良かったのに」
「蘆薈も大量に要るんでしょう」
「うん」
明らかに生返事だった。「一刻も早く蘆薈を」ということしか頭にないらしい。薬草園に着くと、「どれが蘆薈だ」などと思っている蘭舟を尻目にまっすぐ蘆薈に向かい、手慣れた様子でざくりざくりと小気味よく切っては籠に入れていった。蘭舟も見よう見まねで璇と同じように手を動かしつつ、感嘆の声を漏らした。
「園丁のような手際の良さですね」
「ずっと巫婆の後にくっついていたからな」
「ああ」と蘭舟は感じ入ったように頷いた。「あの方も本当に凄い方ですよね。当代一の巫祝でありながら、薬草の知識も医術の心得も、まったく生半ではないのですから」
璇は作業の手を止めず、ふんと笑った。
洪巫婆はかつて、幼い璇が蠱毒に侵された時、見事その呪を解いた巫祝である。
その当時、璇を養育していた王后、魏氏から、宮中への出仕、暗黙裡には王后と、彼女の生んだ第二公子への忠節を、やんわりと求められたものの、洪巫婆は「市井の一巫祝でいたい」と慎ましやかにこれを固辞した。だが下賜された金銀財宝とともに下がろうとした時、璇が巫婆の首にしがみつき、諾と言うまでねだったのである。
――「この巫祝はインチキだ」と私が一言言えば、お前は八つ裂きだ。
巫婆にだけ聞こえるように、そう囁いた公子はこの時、数えで十二歳。小柄でひょろりとした痩せっぽちのせいか、見た目はもう少し幼く見えた。毒が抜けたばかりの儚げな見た目を存分に活かし、「巫婆や、お願い。私のそばにいて」と縋りつく様子は、その場に居合わせた者たちをほろりとさせずにはおかなかった。
――おうおう、お可愛らしい公子様のたっての願いとあらば。
洪巫婆はわなわなと震える手で璇の頭を撫でた。
璇の呪を解いたのが洪巫婆ではないということを、二人はどちらも知っていた。
「――行くぞ。姫が待っている」
籠が一杯になると、璇は籠を背負って再び走り出した。戦地から戻ってきたばかり、しかも一国の公子様とはとても思えぬ腰の軽さである。
姫、ねえ……と後ろを走る蘭舟が独り言ちた。
「何だ。娘娘とでも呼べばいいのか」
聞きとがめた璇が過剰に反応した。「娘娘」とは、人ならぬ数多の神仙の女性に対する敬称である。
「ほんの子狐だった頃を知っているのに、今更そんな呼び方」
「何も言ってないでしょう」
娘が雲の上の存在だと認めたくないのだろう。相手が人間の女であれば、たとえ他人のものであろうと、何とかなってしまうご身分だが、九尾の姫君となるとそうもいかない。
「巫婆、持ってきたぞ」
部屋の前に戻った璇が呼ばわると、巫婆が手足のように使っている侍女の一人が扉口に顔を見せ、恭しく腰を落として籠ごと蘆薈を受け取っていった。同じようにもう一回、蘭舟の籠も受け取る。
「それで足りるか」
「今のところは」
「分かった。では、追加が必要な時は言ってくれ。私はずっとここで待機しているから」
「公子」
蘭舟がさすがに咎めるような声を上げた。後のことは巫婆たちに任せて、今日はもう、さっさと湯浴みでもして床に入ってもらいたい。本人はそれどころではないのだろうが、長きにわたる行軍で、疲労も随分溜まっているはずだった。先程から一言も発していないが、ずっと側に控えている謝執事も、蘭舟に同調する様子を見せる。
部屋の中からうんざりした声が返ってきた。
「必要になるのは早くとも明日じゃ」
「明日? 明日と言ったか? では、明日も彼女は生きて――」
「本人次第じゃ」
ぴしゃりと遮られ、璇は「分かった」と引いたものの、しばらく逡巡した後に再度尋ねた。
「巫婆、中に入ってはいけないか」
ややあって、中から返答があった。
「無事な肌の方が少ない。公子、それでも会う覚悟はあるのかえ」
「当たり前だ」
璇の返答には微塵の躊躇もなかった。
巫婆が心から面倒臭そうに言った。
「あと五刻(約一時間十五分)はかかる。どうしてもと言うなら、先に湯浴みをお済ましなされ。この娘は大層弱っておる。不潔な者は近づけられぬ」
「分かった」