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5.邂逅

 そこにいたのは、あでやかな赤い衣をまとった娘だった。


 この世のものとは思われぬほど、美しい娘。


 娘は顔を璇の方に向けてはいるものの、ぱっちりと開いた綺麗なまなこは、遥か遠く幽境に遊び、地上にある何ものも映してはいない。


 どこからともなく立ち上る風が、滑らかな頬に次々と戯れてゆくのを、娘は人が持たない優美さで大らかに許していた。


 今宵轎に揺られ、花婿の許へ向かっていた身であることは、その装いから明らかだった。


「姫――」


 万感の思いを込めて、璇が呟くのを蘭舟は聞いた。随分な入れ込みようの割には、名も知らぬのかと少々驚く。璇が瞬きもせず見つめる先で、娘は赤い大袖ごと、舞うように手を一振りした。


「蘭舟、伏せろ!」


 二人がいたのは周辺に過ぎなかったが、馬が怯える程度には、ざらりと撫で上げられた。


 娘の周りで巻き起こった大風が、人の姿にせよ狐の姿にせよ、しなやかな体つきの従者や侍女を一緒くたにすくい上げ、轟と唸って押し流してゆく。


「これはあのお嬢さんが⁉」

「それ以外考えられないだろう!」


 地表ごと巻き上げるような、有無を言わさぬ奔流だった。

 加減を知らず、獰猛で、美しいとさえ言える、圧倒的な力の行使だった。


 軽やかな手の一振りで。


 馬の背の上で身を屈め、荒れ狂う風をやり過ごしながら、璇は堪らず笑みをこぼした。

 春の日にほろりと溶けた、雪のような笑みだった。


 ――供の者たちを避難させたのか。お前は今も変わらず、やり方が少々乱暴なのだな。


 その笑みが再び凍りつくまで、幾らも時間はかからなかった。

 璇が馬の腹を蹴るより速く、璇の動きを予期していた蘭舟が前に立ちはだかった。


「退け、蘭舟」

「あの娘はもう生きていません」


 は、と息が漏れた。

 蘭舟に言われるまでもない。燃え盛る炎の中で、娘の体は抜け殻のようにくずおれた。


 ああ、嘘だ。二度と会えぬと思っていたひとに、今宵奇跡のように会えたのに。


 呆然とする璇に、蘭舟は淡々と告げた。


「今行ったところで、あなたにできることと言えば、せいぜい一緒に死んでやることくらいでしょう」


 璇が燃えるような目で蘭舟を睨みつける。

 蘭舟は璇の行く手を阻んだまま、微動だにしなかった。


 武人らしく常に冷静で、だが少しも武骨なところがない、華やかな蘭舟。璇は男としても武人としても、彼に並んだと思ったことはない。

 彼ならば璇ではなくあちら側に仕えた方が、よほど出世の芽があるだろうに、何故かそうすることもなく、ずっと璇に仕えている。


 璇の側近となって僅かひと月ほどのこと、蘭舟は璇を狙ってきた刺客を、一瞬で返り討ちにしたことがあった。


 ご無事ですかと肩越しに振り返られ、璇はつい、答える代わりに蘭舟をじっと見つめてしまった。


 よほど怪訝な顔をしていたのだろう。


 あなたの目が気に入りました、と蘭舟は少し笑って言った。


 屈するものか、誰にも命を好きにさせるものか――そう言わんばかりのあなたの目が。


 蘭舟は頬についた返り血を拭い、無造作に言い捨てた。


 公子様、私は命を弄ぶ者も、軽んじる者も嫌いです、と。


 その蘭舟が今、璇に問う。


「それでも、行きますか」


 璇は答えられなかった。


 ぽつり、と頬に落ちた雨粒に、蘭舟は煩わしげに目を細めた。

 青ざめる璇の頬にも、一粒、二粒と涙のような雨が落ちた。


 どこまでも続く広い野原で、片隅に佇む二人にも、雨は等しく静かに降った。


「……連れ帰って弔う。軒車けんしゃを持て」


 璇がようやく声を振り絞ってそう言うまで、蘭舟は黙って肩を濡らしていた。


「承知しました。あなたが風邪をひいてはことですから、せいぜい急ぐとしましょう」


 今更だった。本当にそんなことを心配している訳ではない。璇の大事な娘の為だった。


 蘭舟は雨をものともせず駆けていった。


 嵐の後のような野原に向かって、璇は一人、馬を進めた。

 ところどころ地はえぐれ、草は焼け焦げ、轎や荷車やその残骸が、玩具のように散らばっている。

 璇は馬を下り、娘がいた辺りに近づいていった。


 ――お前ともあろう者が、これしきのことで。


 頭では理解していても、心が受け入れられなかった。


 こんなことになるくらいなら、ここを通ってくれなければよかったのに。


 重い足を引きずって歩く、璇の代わりに天が泣き、雨が止めどなく頬を濡らした。


 元より手の届かぬ相手だったのだ。消息など知らないままでよかったのに。無事でさえいてくれれば、璇はそれでよかったのに。


 たとえ他の男に嫁ごうと。


 生きてさえいてくれたなら。


 横倒しになった轎の下から、嗚咽が聞こえたような気がした。


 ――まさか。


 璇は駆け寄り、夢中で轎を押しのけた。


 ああもう。何だ、その顔は――。


 轎の下から現れたのは、紛れもなくあのひとだった。


 泣いている。生きている。


 思いがそのまま声となって出た。


「――生きていたか」


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