茱王家夜話3・妻の看病
熱っぽく目を潤ませ、寝台に力なく横たわる璇の枕元で、子季はおろおろと巫婆の診断を待っていた。
「――風邪じゃ」
「え」
思いもよらないその言葉に、子季だけでなくそばに控えていた侍女二人も目を丸くする。
「巫婆? 今、何て言った……?」
「か、か、風邪? 風邪ですか? 普通に人がかかるやつ?」
「ちょっとよく分かりません。毒を盛られたのではないという意味ですか?」
「この方に毒を盛りそうな者なぞ、とっくに排除されておるじゃろう!」
皆して巫婆に一喝されたが、政敵による襲撃や、毒物混入以外で璇が体調を崩すという事態に皆の理解が追いつかない。
「巫婆……本当に風邪なのか? 璇はこんなに苦しそうなのに」
「引き始めに適切な休養を取らず、拗らせたからじゃ」
こほ、こほ、と苦しげな咳をしながら、璇は誤魔化すように顔を背けた。
「最近、ちょっと政務が立て込んでいて……」
「それでもじゃ。最初に適切な休養を取っておれば、ここまでひどくならなかったじゃろうに」
言い訳する璇の声は気の毒なほど掠れていたが、「少し休みを取りなされ」「今日は酒を止めておきなされ」という巫婆の進言を、「そうもいかぬ」「これが飲まずにやっていられるか」と一切聞かなかった結果がこれである。
「はやく、治してくれ……」
「薬を飲んで安静にしておくことじゃ。それ以外ない」
璇は寝台の上で仰向いたまま、不満げに眉を寄せたが、言い返す気力もないようだった。
「人の体とは脆いものなのじゃ」
敵の卑劣な毒以外でも体調を崩すことがあるということを、璇もまたこの時初めて知ったようだった。
巫婆の処方通り、苦い薬を煮出してきた怡若が椀を捧げ持って戻ってくる。
子季は「わたしが」と怡若から椀を受け取り、匙で璇の口元に運んだ。
この少し前、怡若に先駆けて冷水の入った盥と布を持って戻ってきた芸欣に、「わたしが」と子季が手を伸ばした時は、「絞り具合とか、いろいろコツがありますので」と断られている。
璇は大人しく薬を飲んだ。
「……何か、変な感じだな」
振り返ってみれば、これまで常に、匙を与えるのは璇の方だった。
「それが夫婦になるということじゃ」
酸いも甘いも噛み分けた巫婆が言い、それを聞いた璇がしみじみと嬉しそうに笑った。
直後、こほ、こほと苦しげに咳をする。
「璇、しっかり」
いつもなら「大丈夫だ」と笑う璇が、今日は儚げな笑顔で微かに頷くだけである。
――璇、はやく良くなれ。
子季は祈るように璇の体をさすった。
子季の願いは天に届かず、拗らせ切った璇の風邪は悪化の一途を辿った。
「寒い」
拗らせて三日目の夜、高熱に喘ぐ体は燃えるように熱いのに、璇は布団を何枚被せても寒がった。
怡若と芸欣が何とかならぬかと巫婆を見るが、この段階で出来ることは何もない。
「――皆、もう下がって」
璇の枕元にいる子季が、一同に命じた。
「後はわたしに任せてほしい」
子季がそう言うと、巫婆は特に反論することもなく、「そうか」と一礼して踵を返した。
怡若と芸欣も巫婆に倣う。
――こ、これってもしかして、人肌で温める、っていう……。
――そうよ。分かってきたじゃない。
侍女二人の小声のやり取りを子季の耳がぴくりと拾ったが、そんなものよりずっといいものだった。
皆が出ていってしまうと、子季はくるりと一回転し、狐の姿を取る。
狐は璇の布団の中に潜り込み、ファサ……と九つある尻尾で璇の体を覆った。うち一つは襟巻きよろしく璇の首に巻きつけ、首回りもばっちりである。
「子季……?」
――いいから、寝ていろ。
朦朧としている璇に、甘えるように鼻先を押し付け、「さあ寝るぞ」と子季は目を閉じる。
瑞獣である子季にしか出来ない看病であった。
翌朝、しっかりと汗をかいて熟睡した璇は、爽快な気分で目を覚ました。
可愛い妻はすぐそばでちんまりと丸まって、未だ眠っている。
「陛下、お目覚めでしょうか」
「ああ」
部屋の外から尋ねる怡若に答える声も、すっかり元通りだった。
璇は紗の中で子季の背を撫ぜ、湯を用意するよう言いつける。
湯の用意が整うと、璇は愛する妻を抱き上げた。
「子季、まだ眠いか」
新雪の色をまとった瑞獣が、寝ぼけ眼で璇の胸に前足を当て、大人しく抱かれている。
「可愛い。お前は本当に可愛い」
すっかり体調も良くなった璇が、白い毛並みを機嫌よく撫ぜた。
従僕が璇の衣を脱がす時も、璇は子季を離そうとせず、だがそれなりに協力する姿勢を見せて、汗に濡れた衣を脱いだ。
ちゃぷん、と湯に浸かる頃には子季も目を覚ましていて、ふぅ……と気持ちよさそうにしていたが、はっと気づいたように璇を見上げた。
――体はもういいのか?
「すっかり良くなった。お前が看病してくれたおかげだ」
褒められて嬉しそうにする狐の脇に手を差し入れ、璇はそのまま一回転させようとする。
――⁉
子季はすばやく背を反ってそれを回避し、狐とは思えぬほど表情豊かに驚愕を見せた。
「知らぬと思うてか」
璇の前で散々、一回転のち人になったり狐になったりを繰り返しておきながら、何故に「お前、何故わたしの秘密を」と言わんばかりに驚くことが出来るのか。
璇は構わず狐をくるりと一回転させた。
「あ……」
腕の中に子季が現れる。
どういう仕組みか知らないが、人となった子季は璇が期待した一糸まとわぬ姿ではなく、軽い薄物をまとっていた。
璇は一瞬、不機嫌に眉をひそめるが、ぴったりと体に張りつき、ところどころ透けている薄物はかえって煽情的ですらある。ほう、これはこれで……と璇はすぐに機嫌を直した。
くるりと前を向かせた子季を、後ろから抱き込んで座らせる。
「子季……」
後ろから抱きつかれ、子季が屈託なく笑った。
「お前は後ろからわたしに抱きつくのが好きだな」
「好きだ」
どこからでも好きで、そこに優劣はないが、後ろからには後ろからならではの良さがあった。
「お前をこうして包んでいると、悪いものからお前を守っているような気分になる」
「へえー。おんなじだ。わたしもいつも、お前に守られているような気がしていたよ」
「そうか」
別におんなじでもない気がするが、妻と心が通じ合っていて何よりであった。
「璇……。巫婆も言っていた通り、人の体は脆いものだ。巫婆が休めと言ったら休め」
子季が璇の腕をぎゅっとつかむ。
「それに……お前、体が空いたら、わたしを遊びに連れ出してくれるんじゃなかったのか」
「うっ」
璇はかつて子季を引き留める為、色々と調子のいいことを言い散らかしていたのだが、遠出云々についてはずるずると先延ばしになっていた。
「湯に行こう。雪を見ながら温泉に浸かって、こんな風にわたしと過ごそう」
「うん……」
――何だそれは。絶対に行きたい。
仕事を整理しよう、と璇が本気で決意したのはこの時であった。代替わりの忙しさはそろそろ落ち着くだろうし、優秀な官吏も育ってきている。どうにかして一日、いや、少なくとも三日はひねり出し、妻と出掛けるのだ。一面の雪景色が美しい場所へ。
「お前には雪が似合う」
「え。何。急に……」
子季がとろんとした声で尋ねる。璇は子季の後頭部に口づけ、頬をすり寄せた。
「一面まっさらの雪の上で、跳ねたり潜ったり、無心に遊ぶお前はさぞ可愛かろう」
「そういうことは嫌いじゃないけど……人をいつまでも子狐のように」
璇はふっと笑って囁いた。
「私も一緒に遊びたいな」
「うん、そ、そうだよ。一緒に遊ぼう……」
子季は嬉しそうにしつつも何故か舌をもつれさせ、璇の肩にゆっくりと頭を預けた。
「子季……?」
上目遣いに璇を見る子季が妙に艶めかしい。
潤んだ目。上気した頬。
「璇……」
「何だ」
璇もすっかりその気になって、子季の腰紐にくいと指を掛けて引いた。
次の瞬間。
「――子季!」
子季が意識を失った。
「――まったく、あなた様方ときたら! 相も変わらず! こうも交互に!」
「巫婆、後で聞く。それより手に持っているものを寄越せ」
湯の中でのぼせてしまった子季を寝かせ、璇が扇いでやっている。
ぷりぷりと怒りつつも、巫婆が子季に処方したのは、黒蜜をかけた冷たい水餅だった。
「ほら、子季」
子季を起こし、まるで薬のように璇が匙で食べさせる。
たっぷりの果実水で潤っていた子季は、機嫌よく口を開けた。
「ふふ」
薬のように与えられる匙に、甘味が乗っているのが楽しいらしい。
子季が無心で水餅を食べている様子に璇は目を細めた。
――妻の看病はやはり、されるよりする方がしっくりくるな……。
そんなことを思っているとはおくびにも出さない。
璇は匙を運びながら優しく言った。
「子季、どうにかして遊びに連れていってやるからな」
「うん」
「だからお前も、先程の話を忘れるなよ」
「何の話?」
璇は笑って、子季の耳元にこっそりと囁いた。
「一緒に湯に浸かる話だ――薄物は要らぬ」




