茱王家夜話2・この夢が真ならば~璇視点~
杯を持つ指先の感覚が、いつの間にか曖昧になっていた。
美貌の公子はおっとりと首を傾げ、「酔ったか」と独り言ちた。
これしきの量で酔うなど、普段ならあり得ない。だが、今宵の璇にはひとつだけ心当たりがあった。
今日は子季の酌で飲んだのだ。
――そうか……。私は子季の可愛らしさに当てられてしまったか……。
恋する男がそんな寝とぼけたことを考えていると、当の子季が璇の寝室にするりと入ってくる。
お前……。
夜更けに一人で男の寝室へ来るとは、体を差し出すも同義の振る舞いであった。さしもの璇も驚いたが、これは夢だとすぐに気づく。寝台へ呼び寄せると何の躊躇いもなくやってきたから、やはり夢に違いなかった。
「どうした。何かあったのか」
璇の前に立つ子季の顔が、やけに強張っていて悲しげで、これがいくら夢だとしても、璇はそう尋ねずにはいられなかった。
子季は答えず、璇を褥に柔らかく押し倒すと、璇の顔の横に手をついた。
――さすが夢。
璇は期待に胸を躍らせ、うっとりと子季を見上げる。
『お前はわたしの正体を知っているのか』
何だ、今更そんなこと。
璇は甘い笑みを含んだ声で答えた。
「知っている……」
知っているどころか、あの時からずっとお前が好きだった。
『聞け、袁璇――』
璇の愛しい狐娘は、いつもの無邪気な子季ではなく、遥かな高みにいる瑞獣の顔で蠱惑的に囁いた。
『お前が王となるのを助けてやろう』
――ほう、そう来たか。
これは少々意外だった。
しなやかな女の姿を取った瑞獣に押し倒され、王になるのを手伝ってやろうと囁かれる。それはいかにも男が喜びそうな夢ではあるが、璇の見たい夢とは少し違った。
お前の助けなど要らぬ。これが私の夢であるなら、私に縋りついて離れぬお前に、「お前が好きで好きでたまらない。どうかわたしを妻にしてくれ」と言われたい。
夢の中でさえままならぬ子季は、今やどうしたことか本気で怒っていた。
子季の言葉は靄がかかったようにところどころ聞き取れないが、「二度とわたしの名を呼ぶな」「呼んだら喉を食い破ってやる」などと、随分物騒なことを言っている。
子季の怒りの原因に、心当たりがなくはなかった。
権の襲撃を阻止出来ず、むざむざ子季を組み敷かれた。その不甲斐なさを子季は怒っているのだろう。
璇は途方に暮れて尋ねた。
「子季、泣いているのか」
夢の中のこととて、涙は流れているようには見えないが、子季は確かに泣いていた。
「泣くな。私はここにいるから……」
私さえしっかりしていれば、あんなことにはならなかったものを。
璇はやけに重たい腕を持ち上げ、よしよしと子季の背を撫でた。
「悪かった……。もう二度と、お前に怖い思いはさせぬ」
子季の涙を拭いながらそう約束すると、子季は一瞬「うん」と頷きかけたものの、すぐに思い直したように表情を引き締めた。
――何故。
夢の中でさえ、お前は私に何ひとつ委ねてくれぬ――。
璇は子季を引き寄せ、ままよと唇を重ねた。
子季は驚いたようだったが、拒絶する様子は見せなかった。そのことが璇を大胆にし、普段なら出来ないことが出来てしまう。鉛のように重たい両腕で、子季の後頭部としなやかな背を抱え込み、今まで眺めるだけだった唇を思うさま貪る。
愛しいひとの唇はひたすら甘く、ほんの少しだけおずおずと応えてくれるのが堪らなかった。
「ああ、子季……。この夢が真ならば、どんなにか……」
更なる眠りの奥深くに引き込まれながら、璇は詩でも詠じるようにうっとりと呟いた。
――すごい夢を見た……。
明くる朝、一人きりの広い寝台で目覚めた璇は、呆然と天蓋を見上げた。
いろいろな思いが消化し切れず、あんな夢を見てしまったのだろうか。
子季の夢ならこれまでにも度々見ていたが、昨夜の夢に現れた子季は、表情や振る舞いが格段に本物らしく、夢とは思えぬ生々しさだった。
唇の感触すら。
夢の余韻に心も体も預けたまま、璇はぼんやりと身支度を済ませる。朝食の卓につくと、普段通りの何気なさを装って芸欣に尋ねた。
「子季の様子はどうだ」
「はい、ぐっすりと眠っておられます」
毎朝の日課のような質問で、芸欣は給仕の手を止めることなく答えた。
「昨夜は公子妃のお部屋でお過ごしになったそうで、今もそちらでお休みです」
「――公子妃の?」
璇は驚いて芸欣を見た。すぐ隣の部屋に子季がいる――。
「何故――いや、それよりも、あそこはまだ設えの途中で、寝具も何もまだ用意が……」
「はい、それが、昨夜のことなのですが、お部屋にいらっしゃらない娘子を巫婆が探しにいき、丁度その辺りで見つけたそうです。そのまま二人で酒盛りをしているうちに娘子がお眠りになり、あんまり気持ちよさそうに丸まって眠っているから、そのまま寝かせておくことにした、と。あ、一応掛け布団は掛けて……」
璇が音を立てて箸を置いた。
芸欣に不審そうな目でちらちらと様子を窺われていることも知らず、璇はしばし虚空を見つめて放心していたが、やがて勝ち誇ったようにふっ……と笑った。
「昨夜のことは、夢ではなかったのだな」
意味深な独り言に、芸欣の肩がぴくりと揺れた。
お茶の用意をしていた怡若がさらりと尋ねた。
「ご様子を見てまいりましょうか」
「いや、いい。ゆっくり寝かせてやれ。昨夜は随分――いや、何でもない」
泣いていたから、などと言うのも憚られて、璇が途中で言葉を濁すと、今度は怡若までもがぴくりと肩を震わせた。
出掛けに「昼に様子を見に戻る。子季が起きたら『昼食を共に』と伝えておけ」と言い置いて、璇はふらふらと覚束ない足取りで出ていった。
普段は飄々としていて隙のない主が、「おっと」などと柱にぶつかったりしているのを、怡若と芸欣は普段通り畏まった様子で見送った。
「何か……人間らしい……」
「怡若さん? 引くとこじゃないですよ⁉」
二人が膳を片付け、しずしずと捧げ持って廊下を歩いていると、朝は働かない巫婆が珍しく起き出していて、謝執事たち男手に何事か指示していた。
謝執事たちが血相を変えて散っていき、巫婆は億劫そうに怡若と芸欣のことも呼び寄せる。
「芸欣は娘子についておれ。万一娘子が逃げようとしたら、すぐに大声で知らせるのじゃぞ。怡若はこちらへ。少々、打ち合わせることがある」
「何についてですか?」
膳を他の侍女に預け、巫婆について歩き出した怡若が尋ねると、巫婆は突然、堰を切ったように文句を垂れ出した。
「まったく! あのお二方は! ほんに世話の焼ける!」
「巫婆、そんなにお怒りになっては美容に悪いですよ」
怡若はまだ知らなかった。子季を引き留める為、彼女はこれから巫婆と訳の分からぬ寸劇をしなくてはならぬということを。
この後、ようやく昼前に目を覚ました子季が、永逸宮の使用人たちを振り切って脱走を計り、丁度帰ってきた璇に水際で阻止される。
青い青い竜胆の野で出会った九尾の小さな姫君と、毒に侵された人間の子供は遂に八年ぶりの再会を果たし、ついでに璇が呼吸を奪う猛毒に倒れる。
そんな大変なことになるとは誰も予想だにしていない、永逸宮の長い長い一日が始まった。




