44.帰還
国境の砦に向かっていた第一公子が、その途上で錯乱した騎兵に殺害された――。
これ以上ない凶報を受け、その日、茱の宮廷はどよめいた。憎むべき騎兵は既に、権公子の手によって討たれたという。時を同じくして、国境の砦より敵を撃退したという一報がもたらされ、英邁なる公子を失った茱の悲しみを、多少なりとも慰めた。
精緻な彫刻が施された、第一公子の棺が永逸宮の広間に置かれ、殯の場が整えられた。
公子の実の父である茱王、袁威の病はいよいよ篤く、彼が永逸宮に姿を見せることはなかった。「静かに送ってやるがよい」との言葉があったという。
王后、魏氏は白い喪服に身を包み、一度も棺に近寄ることなく、時折すすり泣きのようなものを見せて、義理の息子の早過ぎる死を悼んだ。
第二公子もまた喪服に身を包んでいたが、彼は目に見えて機嫌を損ねていた。
姫を迎えにいってみれば、犬たちはとうに倒されて、寝台はもぬけの殻。彼は思わず誰かの名を罵ろうとしたが、知っているはずのその名をどうしても思い出せなかった。
彼は今、王家の者しか入れぬ殯の間に、当然のような顔をして、取り巻きたちを連れ込んでいる。彼の振る舞いを魏氏ももう窘めもしなかった。
広間の前には文官、武官が参列し、定められた者だけでなく、璇を慕う多くの官僚たちが、自ずからやってきていた。
外には璇の兵士たちもいた。
彼らの姿は永逸宮の門の外まで続き、璇の号令を待つように、皆微動だにせず整列していた。
蘭舟は主の棺を守る侍衛として、他の衛兵たちと共に、甲冑姿で殯の間に立っていた。
権が取り巻きたちを振り返り、「こういう湿っぽいのは好かぬ」と小声で囁いた。
彼が「なあ、抜けだして酒でも飲まぬか」と続けようとした時、棺が安置されている辺りから、ごとりと音がした。
皆が驚いてそちらに目を向けると、棺の蓋が僅かにずれている。
「呉蘭舟、何のつもりだ」
権は棺の側に控える蘭舟を睨んだ。権が後ろを向いた隙に、このような悪ふざけをするなど、卑怯かつ無礼千万であった。
指一本動かさぬ蘭舟の横で、棺の蓋がゆっくりとずり落ちる。中からぬっと顔を出したのは、死んだはずの男であった。
「兄上!」
「キャアアア!」
棺に納められていた璇は、王族の正装をしていた。
頭頂部で結った髷を金冠と簪で留め、黒地に金で吉祥紋を刺繍した、大袖の交領をまとっている。そのような恰好をすると、普段よりも格段に男らしく見えた。首はつながっているものの、幾重にも巻いた赤い荊の冠のような傷痕が、横一本に走っている。
璇が涼やかな目を権に向けた。
「ヒッ、ち、違う、兄上! 違うんだ!」
「ほう……?」
璇は気だるげに襟を引き、流し目に権を見やった。
「では、この傷痕をつけたのは……?」
「そ、そ、それは私だが、違う、違うんだ。聞いてくれ、あれは私の意思ではない! あの女だ! あの女がやれと言うから!」
権は母親を指差して喚いた。躊躇なく息子に売られた母親は、衝撃に声も出ぬようである。
外に控える文武官が、中で繰り広げられているやり取りを、固唾を呑んで聞いていた。
璇が出てきた棺の中から、白くて丸いものが飛び出した。
新雪の色をまとい、九つの尾を持つ瑞獣である。
ここへ来る前、璇を待たせて泰山の泉でばちゃばちゃと水浴びをしてきた彼女の体は、滴るような本来の輝きを取り戻していた。
美しい獣は権に飛び掛かり、首筋にかぶりついた。人間でも魚でも、首のここのところをこうして牙で押さえてやれば、途端に大人しくなることを、彼女は本能で知っている。
「子季、まあ待て」
棺に軽く腰掛けた璇が、おっとりと言った。
「お前にも思うところはあろうが、その者には私も多少の因縁があってな。ここは私に預けてくれぬだろうか」
璇の言う因縁とは、子季への襲撃のことである。
子季は腐ったものでも吐き出すように、ペッと権を離し、璇の許へ駆け戻った。
璇がひょいと子季を抱き上げ、蘭舟を呼ぶ。
「――公子」
「今戻った」
蘭舟の跪拝を受け、璇は静かに命じた。
「あの者らに剣を」
璇の目が指しているのは、権の取り巻きたちであった。
蘭舟は怪訝な顔ひとつせず、即座に剣を四振り用意させる。
訳も分からぬまま剣を持たされ、戦々恐々としている取り巻きたちに、璇が冷たく言った。
「忠誠を示せ」
誰への、とは言わなかった。第一公子殺害という、重罪に関わった疑いが濃厚である権を守り、数多の兵士がひしめく中を突破して、いずこともなく落ち延びるもよし。或いは――。
取り巻きたちは権を取り囲み、その鼻先に剣を向けた。
彼らの安い忠誠が捧げられたのは、権ではなく璇であった。
「……お前たち、私のお陰で散々いい思いをしておきながら!」
吼える権に彼らが一斉に飛び掛かった。
権は身を伏せて躱し、正面の一人の足を払った。すぐさま反転し、相手の手首を砕いて剣を奪う。ついでに軽々と首を斬り、返す刀でもう一人の喉をかすめた。別の方向から突き出される刃を手で握って止め、背中を刺されながら威嚇するように咆哮を上げる。かつての取り巻きたちを容赦なく斬り、また斬られる様は、共食いのような光景だった。
四人対一人の戦いでは、さしもの権も分が悪かった。やがて権は力尽き、体に突き立てられた刃ごと床に倒れた。
すべてが終わった血だまりの中、かろうじて息があるのは一人だけで、彼もまた、助からぬ深手を負っていた。
璇は「死なせてやれ」と命じ、部屋の隅で震えている魏氏に目を転じた。
ゆらり、と近寄ってくる璇から逃げようと、魏氏の手足が虚しく空を掻く。
「アッ……た、たす、助けて……」
「助けて、とはおかしなことを」
璇は上品な笑い声を上げた。
「二度も私を殺させておきながら」
まだらになった白粉の下で、魏氏の顔が恐怖に歪んだ。
璇は衛兵を呼び、「この者を獄へ」と命じた。
「これで大体は片付いたか」と、璇が子季の首の後ろを撫ぜた時、部屋の外で誰かが叫んだ。
「璇公子が狐仙娘娘を連れて、お帰りになったぞ!」
その声に呼応するようにわっと歓声が上がり、外へ外へと広がりながら、大きな波となってゆく。
「子季」
子季は一回転し、人の姿になった。泰山の水で洗われた子季の衣は、輝くばかりに美しい、白絹の袍になっている。
璇は子季を連れ、外に控える者たちの前に姿を現した。
手を上げて歓声に応えた璇は、殊更に子季の腰を抱き寄せ、朗らかに宣告した。
「披露目が遅れた。私の妻だ」
一呼吸遅れて、辺りに再び歓声が轟く中、子季はいかにも狐の娘らしく、ツンと澄まして皆を睥睨した。こういう遊びに付き合うのは嫌いではない。
「公子妃万歳! 公子殿下万々歳!」
本来ならば、王と王后にしか向けることを許されぬ万歳の大合唱に包まれて、璇の葬儀はつつがなく中止された。
アカン。柔軟剤入り洗剤のCMオファーきてまう。泰山の水で洗われた子季の体は驚きのフワッぷり!
次回、最終話です。




