41.黄願
今夜もややハードです。
次話から子季の巻き返しターンです。
――九尾の姫君のお輿入れを、絶対に阻止してちょうだい。
泰山府君の覚えめでたく、男振りも良い李録事に懸想している娘は多い。
黄願の前で、愛らしい顔を歪めた河神の娘もその一人だった。
――大層甘やかされたお育ちの、ぼんやりした気ままな方だとか。録事の妻が務まるとは到底思えない。
務まろうが務まるまいが、そんなものは知ったことではなかったが、河の砂金と操をくれたので、黄願はひとまず話に乗ってやることにした。
と言っても、成功を確約したつもりはない。
黄願はその後も変わりなく、ぷらぷらと無為に毎日を過ごし、姫の輿入れ当日になってようやく、姫の一行が通るであろう、幽界と明界のあわいに呑気な顔を出した。
無論、何の当てもない。
何か使えるものはないか、と周囲の気配を探れば丁度、酒に酔った人間の若者たちが、すぐそばで夜狩りに興じている。これはお誂え向き、と十年来の知己のような顔をして混じり、姫の一行を襲うよう誘導するのは容易かった。
事が成ればそのまま姿を消すつもりだったが、黄願は思いがけず、今日までずるずると明界で過ごすことになった。
誰も逆らうことの出来ぬ公子様とつるみ、好き放題することが殊の外楽しかったからである。
だが、すべての潮が満ちて引くように、黄願もひとつところに留まれなかった。
そろそろぷらりと去っていきたくなった頃、黄願の胸には「世話になった公子様に、礼のひとつもせねばなるまい」という思いが自然に芽生えていた。
驚いたことに、権はあれほど嫌がっていた、九尾の姫にすっかりご執心の様子である。ならば、この黄願が一肌脱いで差し上げましょう。
姫を屋敷に住まわせているという、自堕落な兄公子とやらも姫に執着し、姫の方でもまた、兄公子に心が傾いているらしいということは、少し耳をすませばすぐに分かったが、兄と弟のどちらに姫をやるかと言えば、弟の方に決まっていた。
黄願が満ち足りた時を共に過ごしたのは権であり、義理を欠くような真似は出来ない。
だから、黄願にとっては兄の方を殺す企みに協力することは、姫を差し出すついででしかなかった。
兄が姫に執着しているというのは好都合だった。その執着を利用して、おびき出すのは容易かろう。
姫には何の恨みもないが、どうせ流されるままに生きてきた、世間知らずの退屈な女である。ちょっと優しくされればすぐに過去の男を忘れ、次の男に股も心も開くだろう。
――まさか追いつかれるとは思わなかった。
黄願は既に息のない、美しい男を見下ろした。
雪白の九尾に化けて、地面を引きずられていたのは黄願である。赤い実を潰して体になすりつけ、血に見立てたのは、盛り上げる為の演出のようなもの。網の中は透明な皮で覆っていたから、地面に擦られることはなかったが、がくんがくんと大きく跳ね上げられる度吐き気がこみ上げ、あまり楽しい体験ではなかった。
権が待っている場所までおびき寄せる手はずだったが、その手前で頓挫してしまった。仕方がない。この世の中は、すべてが計画通りにいくとは限らぬものである。
網を開かれ、兄公子に抱き上げられそうになった時、黄願は迷わなかった。姫ではないと気付かれた瞬間、仕留められるのは黄願だと分かっていたから。
猛々しい蹄の音に顔を上げれば、権が猛然と駆け寄ってくるのが見える。
堪え性のない公子様は、待ちくたびれたようだった。
璇を始末したい、と黄願に相談してみると、彼は少し考えてからぽんと手を打った。
――私が九尾の姫に化けて、兄君をおびき寄せましょう。
――そんな単純な策に引っ掛かるか?
権は多分に懐疑的だった。
相手はあの兄である。
――仕掛けは単純なものであればあるほど良いのですよ。
――そうか。
黄願がにっこり笑ってそう言ったから、そうなのかと思った。
璇を人里離れた場所へ連れ出す名目は、頭の良い宮廷人が考えてくれた。枸の残党が砦を襲撃したとなれば、この度の戦の責任者である璇が出張るしかない。名を使われた枸にばれればどうなるかと権は思わぬでもなかったが、璇さえ亡き者にしてしまえば、後はうやむやにできるし、外交問題にはならぬと請け合われた。
「姫は捕えておきます」と黄願が言った。
「姫は犬が大の苦手なので、犬のいる部屋に閉じ込めておきます。公子はお戻りになったらすぐに、助けにいって差し上げてくださいね」と。
「犬が苦手なのに、犬と同じ部屋にずっといさせるのか?」とは、当然の疑問であった。
白目を剥いて泡を吹かれていても困るのだが。
黄願はしゃなりと笑って言った。
――私はこう見えても、ちょっとした方士でして。姫のいる寝台に結界を張ります。犬は結界の向こうに入れませんし、姫も出ようとはなさるまい。
――方士だったか。どうも只人ではないと思っていた。
――恐れ入ります。
黄願は涼しげに賛辞を受け流した。
――結界は犬どもが死ねば破れる仕組み。公子が犬をこらしめ、姫をお助けするのです。いいですか、姫は大層怯えていますから、くれぐれも優しくね。
――分かった。
頷いたものの、黄願の言っていることはよく分からなかった。何故助けた上に機嫌を取らねばならぬのか。向こうが跪いて礼を述べ、身を預けるのが筋である。
そして今、権は計画通り水を汲みにいくと称して、黄願に指定された場所でじっと璇を待っていた。
だが、待てど暮らせど、璇どころか黄願も現れない。
やはり上手くいかなかったか。兄はあれで悪知恵が回るから――。
待つ身はやはり性に合わない。
業を煮やした権は馬に跨り、二人を探しにいくことにした。
それほど馬を走らせるまでもなく、黄願はすぐに見つかった。
権は彼を呼びつけようとして、彼の足元にいる璇に気づいた。
「まさか――」
璇は胸を貫かれ、既に事切れていた。
権は馬から降りるや否や、黄願の頬を張り倒した。
「何故殺した!」
地に叩きつけられた黄願が、ぽかんと権を見上げた。
権が何を言っているのか、分からぬとでも言うように。
何故分からぬのか、分からぬのは権の方だった。
璇を殺すのは権であろう。
「許せぬ! こんな楽な死は!」
権は雄叫びを上げて刀を振り下ろし、璇の首を胴体から切り離した。
そうしなければ気が済まなかった。
これでもまだ到底、見合わないと思った。
「おのれ、お前という奴はどこまでも……!」
死してなお、権を苛立たせる――!
璇はすべてを持っていた。
血筋の正しい高貴な母も、女共をうっとりさせる美貌も、何ものにも靡かぬ侍衛の忠誠も、当代一と謳われる巫祝も、兵たちからの信頼も、美しい女も。すべて。
璇は権の手で切り刻まれ、苦しみ悶えながら死んでいくべきだった。
それこそが、唯一、璇に許される死に様だった。
璇は死に、権は生きていたが、その事実は些かも、権の心を慰めたりはしなかった。




