4.瑞兆
――瑞兆と重なりましたな。
年の離れた穏やかな友の、その後に続いた言葉に一瞬、息が止まりそうになった。
黄金の落日が照らす帰途だった。
その日、茱国第一公子、袁璇は、隣国である枸との国境から、長く続いた両軍睨み合いの末に、何事もなく帰還した。
第一公子という身分ながら、傭兵よろしくあちらこちらに駆り出されることに、本人ももう慣れている。父である茱王、袁威の正殿で、「枸軍撃退」などと勇ましげな言葉で首尾を奏上した璇は、麗しい顔立ちにうっすらと疲労の色を滲ませ、常のごとく、早々の退出を許された。
先の王后、夏氏によく似た線の細い、荒事になど向かぬ見た目の公子であることを、この時になって皆がようやく思い出す。
「これでしばらくはのんびりできるか」
「そうですね。向こうもそうしたいでしょうしね」
枸との睨み合いは既に形式で、この度においても、冬が来る前に一度互いに義務として顔をつき合わせたに過ぎない。向こうは向こうで、今頃「茱軍撃退」などと嘯いているに違いなかった。
侍衛の呉蘭舟のみを供に連れ、疲れている素振りもとうに止めて涼しい顔で歩廊を歩いていた璇が、見知った顔を見つけて軽やかに駆け寄った。
「太卜令」
「璇公子、お帰りなさいませ」
穏やかな目をした老人が、璇に恭しく揖礼した。
老人はさまざまな自然の事象を観察し、三易、八卦之法などを用いて吉凶を占う、太卜署の長である。
通常ならば、冷遇されている公子とは何の接点もないのだが、彼は今よりほんの少し若い頃から、宮中の空気など一切読まず、幼い璇を背におぶったり、眠る前に楽しい物語を聞かせたりと、璇に対する周囲の冷淡を埋め合わせるかのごとくに可愛がった。璇が大きくなった今でも、太卜令の姿を見ると、反射的に駆け寄っていくのはその為である。蘭舟にとっては、主君の人間らしさを垣間見ることの出来る、微笑ましくも数少ない機会だった。
日は既に暮れかかっていたが、璇の帰還を聞き及び、退出を延べて待っていたのだろう。白い髭を蓄え、仙人のような風貌をした太卜令が、いつになくはしゃいだ様子で、何か言いたそうにしている。璇は優しく「どうした」と促した。
「ご帰還は瑞兆と重なりましたな。今宵は九尾の狐の輿入れの列が、我が国の領土を通るようでございます」
「――九尾? どこの?」
璇は一瞬、虚を衝かれたような顔をしたが、すぐにそう尋ねた。
――どこの?
後ろに控える蘭舟が首を傾げる。
瑞兆とされる事象の起こりを告げられ、それが自身の帰還と重なることを寿がれた時、人はただ、それを喜ぶだけで良いのではないのか。
「年頃の娘がいる九尾は多いのか」
璇は更に問いを重ねた。蘭舟が顔を上げ、主君の背をまじまじと見つめる。
――どうしました? 公子様。
普段の璇ならば、こういう話には大らかに「そうか」と笑ってそれで終わりである。
太卜令が困ったように髭を扱いた。
「その辺りは、人知を超えた話でして……」
「そうだな。いや、何でもない」
何でもないことはなさそうだったが、璇はひとまずそう言った。
「それで、どの辺りを通るのか」
「占卜では南東と出ております。はっきりしたことは申せませんが、恐らくは王宮から少し離れた、開けた野の辺りではないかと」
「ふーん……」
璇はそのまま、しばらく何か考えていたが、やがて涼やかな笑みを浮かべて言った。
「良いことを教えてもらった。ありがとう」
それきり、いつもの飄々とした璇に戻っていたが、太卜令と別れた後も、あの辺りだろうか、いや、それとも、などと考えているのが、蘭舟には手に取るように分かった。
「見物したいんですか?」と尋ねる蘭舟に、「うん、まあ」と言葉を濁し、「今日はお前も疲れているだろう。早く帰ってゆっくり休め」と優しく言ってくれるのを、「まあまあ」と押し切って、蘭舟は半ば強引に供を決め込んだ。
青く輝く月明かりの下、主君と二人、あてどなく馬を走らせる。
「いい月だな」
「ええ。瑞獣たる九尾の狐の婚礼に、まこと相応しい」
「……」
今日はいつになく分かりやすい璇が、腹を下した子供のような顔になった。璇が言っているのは「明るくて馬を走らせやすいな」程度の意味だと、蘭舟も無論分かって言っている。
一体、どこでどんな風に知り合ったのやら……。
麗しいお顔にちらりと目を走らせるが、璇は今しがた見せた表情など、まるでなかったかのように、何食わぬ顔で周囲を見回していた。
いつものように、主君はきっと何も話さないだろう。
不遇の公子は孤独に慣れて、誰にも心の内を見せない。
射干玉の髪を後ろの高い位置でひとつに結わえ、宮中に戻っても戦地と同じく、筒袖の胡服と裾を絞った袴を好む。動きやすい恰好でないと、何かあった時に咄嗟に避けられない。
璇は母親譲りの涼やかな目を伏せ、辺りの気配に耳を澄ましていた。虫も殺さぬような顔をして、これで意外と野の獣のようなところがある。
なかなかどうして。大した公子様だった。
振り返った璇が、ぱっと馬を走らせた。
完全な不意打ちだったが、武人たる蘭舟の体は勝手に動いてひたと璇に付き従う。
二人で黙々と馬を走らせるうち、野原に伸びた行列に、流れ星のような火矢が降り注いでいるのが見えた。
「あれは、権公子とお仲間では……」
「権は一体何をやっている⁉」
璇の声はほとんど悲鳴だった。
灼灼たる炎のつぶてが夜を切り裂き、ただひたすらに、夢のごとくたおやかな輿入れの列を蹂躙している。璇の異母弟と、その取り巻きの若い貴人たちは、遊びに熱中する子供のように、容赦なく火矢を放っていた。
「公子」
蘭舟の声も聞こえないのか、璇は食い入るように輿入れの列を見つめていた。
「璇公子」と、再び呼びかける蘭舟に、
「蘭舟、お前ちょっとここで待っ……」
璇がそう言いかけた時、炎の向こうで赤い袖が翻った。