39.対峙
二話連続でハードな展開が続きます。
今回は子季、次話は璇です。
「ふっふっふっ……」
罠に掛かりにいっているはずの、璇の機嫌が頗る良かった。
「どうしました。ご乱心ですか」
「いや……」
ふっふっふっ……という再びの含み笑いの合間に、「子季が」という蕩け切った声が挟まる。
「私を誘惑してきた」
「へえ……娘子、頑張りましたね」
「何の。頑張ったのは私だ」
璇は軍馬を悠々と駆りながら、暮れなずむ空に向かって呟いた。
「お前は私に、獣のように貪り食われるところだったのだぞ……」
「公子? 詩でも詠じているような麗しいお声で何をあなたは」
蘭舟の言葉などどこ吹く風で、璇は物憂くため息をついた。
「やはり、砦まで行かねばならぬだろうな……」
「ええまあ、砦に向かってますから」
出来れば行きたくない、と言うより子季の許へ引き返したい、という言外の声には気づかぬふりで、蘭舟は淡々と応えた。
「お前も分かっているくせに。砦は襲撃を受けておらぬ」
まったく、下らぬことに付き合わせおって、と璇は美しい眉を寄せた。
璇は砦の守備軍の将とは、普段から密かに伝書鳩でやり取りする仲である。何なら、つい昨日受け取ったばかりの定期連絡も、「変わりなし。皆健康。差し入れありがとう」という実に平和な内容だった。襲撃を受けたなどという報告は一切受けていない。
加えて、宮廷人たちのあの態度である。襲撃の奏上を受けても、驚いたことに彼らは少しも動じていなかった。些細なことですぐに浮足立つようなあの者らが。
「権も砦に向かう気など更々ないだろう。首尾よく私を片付けた後は、どうせ砦からの急使と出くわし、『敵の撃退に成功』という報告でも受けて、帰還するという筋書きなのだからな」
そうは行かぬが、と璇は冷ややかに吐き捨てた。まったくもって不本意だが、何としても砦の状態をこの目で確認し、この度の陰謀を企てた者たちを追求せねば。
「それで、権はどうやって私を屠るつもりなのだろうな」
所詮は井の中の蛙である義母や異母弟には、子飼いの私兵を育てるという長期的視野も技量もない。今回限りと金で雇った傭兵崩れを使うにしても、百の精鋭の前には蟻の群れにも等しかろう。
或いは進路に罠を仕掛けてくるのだろうかとも考えたが、こういうことにもやはり、それなりの下準備と器用さと経験が必要で、これが出来る人材は彼らの駒の中にはいない。
何より、璇一人を仕留める為に、貴重な騎兵を犠牲にするのは惜しいはずだった。となると、自ずと答えは明らかである。
「やはり、権が自ら手を下すか」
「そのおつもりでしょう。そうはさせませんが」
「分かっている。仕掛けてくるとしたら休憩か、野営の折か」
「最初の休憩では? 堪え性のない方ですし」
「待つ身はつらいから、それならこちらもありがたいな」
璇は涼やかな目を不敵に細めた。
「返り討ちにしてくれる」
異母弟とは、そろそろ決着をつける頃合いだった。
薄暗がりの中、目を覚ました子季は見慣れぬ寝台の上にいた。
辺りには獣の匂いが立ち込め、恐ろしい唸り声がしている。
ぼんやりと横たわったまま、周囲に視線を巡らすと、寝台の周りをぐるぐる回っている犬と目が合った。
悲鳴を上げて飛び起きた子季は、即座に三方から激しく吠え掛かられた。
「たっ、たっ、助け……」
子季を取り囲んでいるのは、いずれも凶悪な面構えをした、筋骨隆々たる成犬であった。その数、三匹。やたらと血に飢えた様相で、興奮のあまりか、犬同士で互いに噛みつき合っている。
「こっ、こっ、来ないで、こっちに来ないで!」
逃げ場のない子季は寝台の中央で低く身を伏せ、あられもない鳴き声を上げた。
「……?」
為す術もなく寝台で震えているというのに、彼らは遠巻きに唸るばかりで、一向に襲い掛かってこない。
はて……と薄闇で目を凝らすと、ほとんど透明に近い、透かしの絹のような膜が寝台の周囲に張り巡らされていることに気づいた。
恐る恐る膜に手を伸ばすと、指先に痺れるような痛みが走る。
これは……。
寝台の周囲には、一見それと分からぬ結界が張られていた。相当な痛みと引き換えでなければ、ここを突破することは出来そうにない。この中にいるうちは、犬たちから守られているという訳だった。逆に言えば、子季もここから出られない。誰かがやってきて、犬を追い払ってくれない限りは。
「だ、だ、誰か……じいや……」
情けない声を上げ、子季は助けを呼んだ。
璇……と言いかけ、はっとする。
璇は無事だろうか。
多少の油断があったとはいえ、幽界の住人たる子季が、これほど首尾よく捕えられている。
美岩の持つおぞましい鈴。子季と犬を分かつ、悪趣味ではあるが絹のごとき高度な結界。
尋常ならざる力の介入があったことは明らかだった。
でも、誰が何の為にこんなことを。
その瞬間、美岩の最後の言葉と、子季の記憶の奥底にあった禍々しい名が共鳴した。
――黄願様は二人の公子のうち、権公子に娘娘を差し上げることに決めました。
黄願とは、もしや宋黄願のことではないか――。
それは、子季がまだ子供だった頃、遷山を追放されたという悪辣な蛇の名だった。
今でもその名を口にすることが忌避されている悪しき蛇は、強い力とからっぽの心を持ち、おぞましい内面とは裏腹に、見た目は女のように優しげな姿をしているという。
「璇――」
璇を狙っている者が、どれほど策略に長けていようと、ただの人間だったなら、恐らく璇の敵ではない。だが、宋黄願が権についているとなれば、璇をいつまで生かすかなど、黄願の気分ひとつだった。
――早く助けにいかなくては。
「ううー……」
分かっているのに、体が竦んで動けなかった。絶え間なく吠え掛かる、恐ろしい怪物たちの前を通るなど、とてもとても。
だが、こうしている間にも、黄願の二股に割れた舌が、璇の命の上を這い回っているとなれば、子季は無い気力を振り絞るしかなかった。
うっ、うっ、と怯え切った声を上げ、子季は震えながら手を前についた。
獲物が寝台を出ようとしている気配を察し、犬たちが猛り狂う。
子季は姿勢を低く取り、焦れた犬たちが周回して背を見せる瞬間を待った。
――えい!
体を弾く痛みは一瞬で、子季は外に躍り出た。その勢いのまま一回転し、狐の姿を取る。
――まずは一匹。
目にも留まらぬ速さで敵の喉を食い破ると、再び体中を弾かれながら寝台に戻る。
傷痕ひとつ残らずとも、全身を切り刻まれたようだった。体力もかなり削られている。これをもう一往復は出来ないと思った。次に出たら、二匹とも仕留めなくてはならない。
人間よりよほど賢いのか、子季が容易く往復して見せたというのに、犬たちは決して結界を越えてこようとはしなかった。
駄目だ……。我慢比べをしている時間はない。
悪趣味な黄願は、こうして子季を嬲っているように、璇のことも嬲っているに違いなかった。
――璇、すぐに行くから、待っていて。
結界の向こうからでも、歯をむき出して唸る犬たちは凶悪極まりない。子季は恐ろしさに気を失いそうになりながら、己を鼓舞して再び外へ飛び出した。
二匹が同時に飛び掛かってくる。子季は一匹に狙いを定め、下から喉を狙っていく。もう一匹が子季の背に飛び乗る。しなやかな背に牙が食い込み、雪白の体から吹き出す赤い血が周囲に飛び散る。
――負けるものか。お前たちに、わたしの行く手を阻ませるものか。
背や足を容赦なく削られながら、子季は渾身の力で二匹目の喉を食い破った。
体を捻って最後の一匹を振り落としにかかる。
璇が待っていた。
たとえそれがただの願望だったとしても、彼はきっと持ちこたえていて、子季が行くのを待ってくれているに違いなかった。




