38.罠(後)
「わたしも行――」
「駄目だ」
子季が何を言うか見当がついていたのか、璇が言下に撥ねつけた。
「外でお前を守り切れる自信がない。狙われているのは私だが、屋外では本当に、どこから何が飛んでくるか分からない。私の巻き添えを食って、お前に何かあったらと思うと気が狂う」
「そんな心配は不要だ。お前がわたしを守るのではない。わたしがお前を」
「要らぬ」
突き放すような、冷たい口調だった。
璇は既に、戦地にいるような顔つきをしていた。
「お前がそばにいると、お前にばかり意識が行って、自分の守りが疎かになる。お前の方が強いと頭では分かっていても、私はお前を守ることを最優先にしてしまう」
「璇――」
本当に余裕がないのだと分かった。
だが、気が狂いそうなのは子季も同じだった。璇が危険な目に遭うと分かっていながら、どうして璇をみすみす行かせなければならないのか。
「私なら平気だ。これまでも、味方に潜む刺客に戦地で背中を狙われたことなど数知れぬ。権が同行するのは自分で止めを刺したいからだろう。ならば寧ろ、動きも読めるというものだ。それに、私が連れていく百の騎兵は、私が最初に任された斥候軍を主体とする精鋭たちだ。長年苦楽を共にした仲間であり、これほど頼もしい味方もいない」
斥候軍……? と首を傾げる子季に、背後から小声で注釈が入る。
「後から来る本隊の為に周囲を調査したり、下準備をしたりする部隊です」
子季の全身の毛が逆立った。
お前は茱の第一公子でありながら、何故そんな一から叩き上げたような軍歴なのか。
この国の人間たちは本当に、お前のことを大事にしない――。
この瞬間、子季の胸の内で、ひっそりと何かが定まった。
璇はやや口調を和らげて言った。
「私を排除する傍ら、連中はお前は狙ってくるだろう。それでも、お前をここに残すのは、外よりもここが安全だと思うからだ。たとえお前が捕らえられたとて、連中はお前の命を奪うことはせぬ。寧ろ丁重に扱うだろう」
璇が愛おしげに囁いた。
「――残れ」
嫌だ、という言葉を奪う声音だった。
子季が大人しくなると、蘭舟が見かねたように声を上げた。
「公子、私は外で待っています。あまり時間はありませんので、手短に」
蘭舟が足早に部屋を出ていき、扉が閉まる。
主思いの蘭舟による、主の為の計らいだったが、蘭舟がそう言い出さなければ、「蘭舟、少しの間、時間をちょうだい」と言っていたのは子季だった。
二人きりになった部屋の中で、妖しく光る金の眼が、この時を待っていたように璇を見上げた。
璇が緊張しているのか警戒しているのか、よく分からない表情になる。
子季は璇の首の後ろに腕を回し、隙間なく体を押し付けた。
「子季――」
「璇、甲冑を脱いで……」
璇の肩に顔をうずめ、誘いかけるようにねだる。
狡いことをしているという自覚はあった。
閨のことは、琉から多少は教わっている。
男の衝動にひと度火がつけば、制御は利かぬということも。
――何とでも言え。わたしに残れと言うのなら、どんな手段を使ってでも、璇も共に残すまで。
璇はどこへも行かず、一晩をここで子季と過ごす。朝になったら子季と共に正殿へ出向く。その場で子季が顕現し、「お前たちの悪だくみはお見通しだ!」とはったりをかませば、誰かが暴露するだろう。今回のことはすべて、璇を亡き者にする策略だったということを。
熱い吐息をこぼした璇が、子季の後頭部に手を回して尋ねた。
「脱いだ後は……?」
「ぬ、脱いだ、後は……」
分かっているくせに、何故敢えて問うのか。意地悪だと思った。璇は絶対に分かっていて訊いている。だって、もう半分以上、子季の誘いに乗っている。子季は顔を真っ赤にして、声を振り絞った。
「あ……朝まで、寝台でわたしと過ごすんだ……」
璇は浅く笑い、子季の頭に頬をすり寄せた。
二人を隔てる甲冑は冷たく、肌の温もりを伝えない。子季は一瞬、何の為にこんなことをしているのか忘れ、璇の温もりを求めるように、一層強く体を押し付けた。
う、と璇が呻き、子季の肩にゆっくりと手を置く。
その手が優しく子季を押し戻し、二人の間に隙間が出来た。
「――お前の気持ちはよく分かった」
他には誰もいないのに、殊更に子季の耳元で、璇はまるで睦言のように囁く。
「帰ってきたら、如何ようにもしてやろう」
「え、違、そんなんじゃ……」
璇は子季の腰を緩く引き寄せ、子季の鎖骨の上に指で「コ」という形を描いた。
――すぐ戻る。
「璇!」
璇は振り返らなかった。その足取りは普段と何ら変わるところがなく、出陣は彼にとっては日常なのだと思い知る。
「私が戻るまでここにいろ。お前の部屋は門に近過ぎる」
立ち去りざま、業務連絡のように素っ気なくそう告げたのが、いかにも璇らしかった。
「馬鹿! 許さないからな……!」
神獣の身でありながら、子季はまるで無力な幼子のように、璇の部屋で悪態をつくしかなかった。
隠れてついていこうかとも思ったが、野の獣のように鋭い璇は、きっと子季の気配をたちどころに察してしまう。そうなってしまえば、正に璇が危惧した通り、彼の足を引っ張るだけだった。
ここにいるしかないのか……。
不本意ながらもそう認めざるを得ず、子季は深いため息をついた。
あれ。
ふと違和感を覚えたのは、その時だった。
どうして誰も来ないんだろう。怡若と芸欣がすぐにでも来てくれそうなものなのに。
主が出立した後の永逸宮は、不気味なほどの静けさに覆われている。
何となく嫌な感じがして、子季は扉にまじないをかけた。子季が「お入り」と言わなければ誰も入れない。
ややあって扉口がほとほとと叩かれた。
「娘子、私です。美岩です」
「どうしたの」
お前は斬られたはずでは、とは尋ねなかった。
謝執事は仕損じたということだ。
子季の胸が俄かに騒めく。
「お迎えに参りました。さ、私と一緒に逃げましょう」
「何故? ここが一番安全だと璇が」
美岩は子季に正体を知られているとは思っていないらしい。いかにも忠義者といった様子で、扉の外から優しく声をかけてくる。
「璇公子のご命令です。公子のご出立の後、もっと安全な場所にお連れするようにと」
子季が答えずにいると、外から再び猫撫で声がした。
「娘子、ここを開けてください」
「どうして怡若と芸欣が来ないの?」
「気になりますか? ――二人が無事か」
子季は一も二もなく扉口に駆け寄り、自ら扉を開いた。
「皆をどうした」
「お静かに。眠ってもらっているだけです」
美岩は美しい飾り紐のついた鈴を手に持っていた。鈴のまとう気配が尋常ではなく、何かの命ひとつと引き換えに作られた、おぞましい呪具であることがすぐに分かる。
一介の侍女が持っているような代物ではなかった。
お前、これをどこで――。
美岩がうっとりと笑った。
「ええ、お察しの通り、この鈴の音を聞くと誰であれ、たちどころに眠ってしまうんです」
美岩は鈴を振る前に囁いた。
「黄願様は二人の公子のうち、権公子に娘娘を差し上げることに決めました」
権の名が出た瞬間、不覚にも動揺してしまった子季は、咄嗟に風で耳を塞ごうとして間に合わなかった。
ちりん、と愛らしい鈴の音がして、子季から意識を吸い上げてゆく。
美岩が大きく手招きし、誰かを呼んでいる。耳栓をした黒尽くめの男が二人現れて、崩れ落ちる子季の体に手を伸ばす。
遠ざかる意識の下で浮かぶのは、別れ際に見た璇の美しい横顔だった。




