37.罠(前)
表面上は何事もなく、それから数日が過ぎた。
璇は毎朝、「私の留守の間に何大人が来ても、絶対について帰らぬように」と言い置いて出ていき、帰宅すると、変わらず子季がそこにいることにほっと安堵の息をつく。
「今帰った」
「お帰り」
理由のない熱などじきに下がり、子季は心の底に沈む澱のような、漠然とした不安を抱えながらも、変わらぬ笑みで璇を出迎えた。
交わすやり取りは気安くとも、璇は子季をあくまで「客人」として遇し、あの竜胆の庭でしたような触れ方は、一切しなくなっていた。璇なりに「まだ認められた仲ではない。軽挙は慎むべし」とでも思っているのだろう。璇の態度は時に素っ気ないほどだったが、それで子季が不安になることはなかった。璇の愛は疑うべくもない。
一日、また一日と、息を殺してやり過ごす、上澄みだけは穏やかな日々がずっと続くかと思われた矢先、璇の帰宅に先んじて永逸宮に急命が下った。
「璇公子、ご出陣。御仕度、速やかに相整えよ」
永逸宮が俄かに慌ただしくなる。
ほどなくして帰宅した璇は、子季が何か言うより先に「後で寄る」と言い捨てて、足早に自室へ行ってしまった。
追いかけていっていいものか、子季が悶々としていると、微かな金属音をまとわせた、迷いのない足音がカチャカチャと入り口から聞こえてきた。
「蘭舟!」
こちらは既に甲冑を着込み、璇の部屋へ向かう途中の蘭舟である。
「わたしも一緒に行っていい?」
「別にいいのでは? 甲冑を着ているところを見たいんですか?」
「普通に璇と話したいんだ!」
呑気な野次馬のように扱われ、子季はキッと言い返した。
大股で璇の部屋へ向かう蘭舟に小走りでついていく。
蘭舟が叩扉し、
「公子」
「入れ」
「璇! わたしもいい?」
「……入れ」
甲冑の着付けはほぼ終わっており、謝執事が手慣れた様子で璇の肩に深紅の披風を羽織らせていた。
本当に、行くんだ……。
青い顔で駆け寄ってくる子季を目で制し、璇はほとんど唇の動きだけで、謝執事に素早く命じた。
――美岩を斬れ。
――はい。
謝執事が拱手し、顔色一つ変えずに出ていく。
「美岩を? 何故」
美岩は永逸宮の侍女の一人で、特に言葉を交わしたことはなかったものの、時折子季をじっと見つめ、目に思いを込めて頷いてくる、印象的な人だった。火傷に同情してくれているのかと思い、子季も「平気だよ」という意味を込めて頷き返していたのだが、あの美岩が一体何をやったのだろうか。
璇は「これが聞こえるのか」と苦笑して、言った。
「白粉の間者だ。知っていて泳がせていたが、状況が変わった。私の留守の間に、敵を引き込まれては敵わぬ」
璇は子季の左頬に指を滑らせた。
「すぐ戻る、とは言えぬが、待っていてくれ」
子季は縋りつくように璇の手をつかんだ。
「出陣って、どういうこと」
「国境の砦が襲撃を受けた」
「誰に?」
「誰にと来たか。我が国の隣に枸という国がある。常に交戦状態ということもないが、かと言って友好関係にある訳でもない」
枸は草原の騎馬民族が興した国で、規模としては小国でありながら、草原の盟主を以て任ずる荒々しい遊牧国家である。
建国以来、周辺の族長たちを誘っては、しばしば茱との国境を侵していたが、璇が茱の大将軍となってからは、毎年一回、大体秋の初めに睨み合って、それで互いに義務を果たしたような関係が続いていた。
璇はそういう事情をかいつまんで説明し、
「お前と出会った時に、私が行っていた戦と言うのはそれだ」
「ふうん。で、国境の砦を襲ったのは、その枸という国なの?」
「報せによるとそうらしい。枸は今回に限って、自軍のみそのまま引き上げず、奇襲の機会を窺っていたようだ。……確かに、単独でも侮れない相手ではあるが、ただ一国で茱の砦を攻撃するなど、今までなかったことだがな」
「ふうん……」
しばしの沈黙の後、「今回に限って」と子季が低く呟けば、「今回に限って」と璇も頷く。
「それで、砦は落ちそうなのか?」
「矢傷を負った兵士が単騎、王都に戻ってそのように報告した」
彼は砦を守る兵士の一人で、大混乱のさ中、血路を開いた上官に「行け!」と押し出されて脱出を果たし、己の深手も顧みず、王都まで駆け戻ったという。
「重傷を押して報告に戻った兵を疑う理由もあるまい」
「ふうん……」
何となく釈然としないが、璇はこれと言って感慨もない口調で、
「混乱のさ中を脱出してきたのだ。情報が錯綜している可能性もあろう。だが、この状況をそのまま放置する訳には無論、行かぬ」
璇は小さく嘆息し、淡々と言った。
「それで、この度の戦の責任者である私が、ひとまず百の騎兵を率いて救援に向かうことに」
「いろいろとおかしい」
戦に詳しい訳ではないが、そう言わずにはいられなかった。ひとまず足の速い騎兵を救援に差し向けるのはいいとして、大将軍たる璇の役目は、その後に続く本隊を指揮することではないのか。そもそも、状況がほぼ不明な砦に向かわせる騎兵の数が、百というのは妥当なのか。
「それは本当に璇が行かなければならないのか」
「それどころか娘子、権公子も行くんですよ」
何故か子季の従者のような顔をして、子季の背後に控えている蘭舟が、ぼそっと口を挟んだ。
「国境の砦の救援に、公子が二人出向くのか」
人間の国のことはあまり詳しいとは言えない子季だが、おかしいとしか思えなかった。
あり得ない。すべてがおかしい。
「権公子の取り巻き五人も、護衛と称して勿論ついてきます」
「あいつの取り巻きは四人ではなかったか?」
「あれ? そうでしたっけ?」
「いや、五人か。五人だったな。私は何を勘違いしたのだろう」
子季の頭越しに、璇と蘭舟が呑気とも言える会話を繰り広げる。
子季は唸るように言った。
「罠だ」
「だろうな」
璇もあっさりと同意した。
「いつもは権の出陣に反対する白粉が、今回に限っては一切反対しなかったらしい」
子季は細い指でこめかみを押さえた。つまりはこういうことだ――砦の奇襲は璇を誘い出す名目で、権の同行はよからぬ企みの証。
「お前、分かっていて行くのか」
「王命だ。行かぬという選択肢はない」
金の眼が怒りに燃え上がった。
何たる愚王か。璇に降る瑞兆の数々を知らぬはずがない彼は、己の子の器量を認めるどころか、己が取って代わられることを恐れたか。それとも、もはやまともな判断が下せぬほど気鬱がひどいのか。




