35.竜胆の逢瀬
湯から上がった子季はぶるりと体を震わせ、覚束ない手つきで薄物をまとった。子季を手伝う為に入ってきた芸欣が、背後から衣を着せながら、良かったですねと何度も声を詰まらせる。この時点で子季の髪がすっかり乾いていることにはもう慣れていて、今更驚きもしない。帯を締められ、衝立から出ると、卓について待っていた璇が立ち上がった。
「……お前、わたしの火傷の痕が消えたのがそんなに嫌なのか」
死にそうな顔をしている璇に、子季が文句を言った。絶世の美女に戻ったというのに、璇はちっとも見惚れてくれない。それどころか、物凄く残念そうですらあった。
「お前を取られるかもしれぬ」
「取られるも取られないもない。わたしは元々、あの方に嫁ぐ身だ」
この先、子季がどうするか、告げたも同然の言葉だった。
「まあ待て」と、冷静な口調で言いながら、璇は無意識にか、痕がないのを確かめるように子季の左頬を撫ぜた。
「何大人にお会いした」
「えっ、じい……何執事と?」
驚く子季に、璇はうんと頷いた。
「よろしくお取り計らいいただくようお願いした。無下に断られたりはしなかったから、ご父君に話を通してくださると思う」
「無理だ、璇。このご縁は泰山府君から賜ったもの。一介の九尾が足蹴にしていい縁談ではない」
事の重大さを伝えるべく、子季は敢えて尊い御方の名を出した。
「確かに、こちらから一度、ご辞退を申し入れてはいたが、あれは傷痕のことがあったからだ。昨夜、先方からお返事があって、破談にせずともよいとのことだった。だが、もし破談になっていたとしても、それは傷痕があっての話だったから……」
「すっかり消えたな。綺麗だ」
璇が眩しげに子季を見る。
子季は泣きたくなった。
「落ち着け」と、璇は憎らしいくらいに落ち着いた声で言った。
「泰山府君のお心は、私には計り知れぬが、お前たちの世界の婚姻に、政略や閨閥、家臣同士の勢力の均衡などというややこしい要素もなかろう。万物の生死を統べるお方が、ただ親心でお前の幸せの為だけに賜った縁談ならば、よもやお前に無理強いすることはあるまい。相手の方も会ったことがないのなら、取り立ててお前に執着もなかろう。ここは私を信じてしばし待て」
そう言って、璇は子季の顔を覗き込み、涼やかに微笑んだ。
「出かけるぞ。――芸欣、子季に外出の支度を」
「外出? どこへ?」
「私の庭だ。見たいと言っていたではないか」
昨日の話をもう忘れたか、と楽しそうに微笑む公子様にのんびりと見物されながら、子季は髪を結い上げられ、薄く化粧を施される。
瑞々しい花のような美女に仕上がった子季に、たっぷりとひだのある上品な外套を羽織らせ、「眉間に皺を寄せるな」と璇は耳元で優しく窘めた。
「何大人の庭も無論美しかったが、私の庭もちょっとしたものだぞ」
永逸宮の門を二人で潜りながら、のんびりとそんなことを言う。
「……お前は落ち着いているな」
「そう見えるか」
璇は否定も肯定もせず、ただ苦笑した。
王宮内とはいえ、こんな風に二人で出歩くのは初めてだった。
愛しい男と手に手を取って、大好きな花を見に――。
これは一体何なのだろう。まるで新婚夫婦のようだ。実際はいつ離れ離れになるとも知れぬ身なのに。
子季の胸の内など知る由もない、通りすがりの王宮の侍女たちが、二人を見てきゃっと娘らしい声を上げた。
――見て、璇公子がお連れになっているのは……。
――例のお客人かしら。これほどお美しい方だったなんて……。
本来の姿に戻った九尾の姫君は、内側から光り輝くような美を放っていた。
少し歩いたところで急に視界が開け、一面の竜胆が目の前に現れる。
「あ……」
あの竜胆の野原だと、すぐに分かった。
風の匂いも、周囲の風景も違う。
青の濃さとて無論違う。
それでもこれは、子季のお気に入りの午睡の場所、あの竜胆の野原だった。
「ここは……」と言ったきり声を失う子季を促し、璇は竜胆の野に足を踏み入れる。今やしっかりと指まで絡められた手に引かれるまま、子季は懐かしい野原に降り立った。
歩く度、足下の竜胆が揺れる。
「気に入ったか」
「うん」
子季は目を潤ませ、じっと璇を見上げた。
璇は青い竜胆をひとつ摘んで、子季の髪に挿した。
「綺麗だ。どんなお前でも」
どうして、この男と離れられることがあろう――。
子季の目から涙がこぼれ落ちる前に、璇が子季を抱きしめた。
互いに何も言わない。何かを約束したところで、果たされるかどうか、互いに知らない。
璇が子季の体を囲い込むように一層強く抱きしめるから、せっかく璇が挿してくれた花が潰れてしまいそうだった。
璇、と抗議の声を上げようとしたが、舌がもつれて上手く声が出なかった。
「子季……?」
璇が子季の異変に気づき、腕を緩める。
子季の顔を覗き込み、璇は真剣な表情で額をこつんと合わせた。
「お前――」
璇は子季の膝を勢いよくすくって抱き上げた。
少し離れたところで歓声が上がる。
「いつからだ。熱があるならあると言え」
熱……?
そんなものがあるとは子季も知らなかった。ただ何となく、頭がぼんやりするなぁと思っていただけで。
「妙に可愛い顔をしていると思ったら……」
ぶつぶつと文句を言いながら、璇は子季を抱えて脇目も振らずに来た道を戻っている。
ああ、帰るのだ……。
子季の頬が我知らず緩んだ。
璇と一緒に、永逸宮に帰るのだ――。
「何を笑っている。馬鹿」
そんなことを言われても、あまりにも心配そうな声音のせいで、ちっとも腹が立たなかった。
権がその光景を見たのは、まったくの偶然だった。
療養中と称して永逸宮に引きこもっているはずの、いけ好かない異母兄が、見慣れぬ女と庭を散策している。
――まったく、いいご身分だな。
こちらは母からつまらぬことで叱責され、遊び仲間とも引き離されて、朝から年寄りたちの下らぬ講義を聴きにいかねばならぬというのに。
あの日、どんなものかと九尾の姫を見にいってしまったのがいけなかった。
侍女長に連れ帰られ、キャンキャンうるさい母の声を、ここまでと決めている時間だけ聞いた後、権は猛然と抗議した。
――でも母上、あんまりだ。あんな醜い女など。
――仕方ないじゃない、獣なのだもの。
母はそれが何だと言わんばかりだった。
「何としても挽回なさい」と気の滅入ることを命じられたが、そんなことは絶対に御免だった。
見ろ。璇とて別の女で息抜きをしているではないか。
権の行く手には既に人だかりが出来ていて、文官も侍女も皆ぼうっとした表情で璇の連れの女を眺めている。好奇心に駆られ、権も女の顔が見える位置に移動した。
誰だ、あれは……。
璇が連れているのは、この世のものとは思われぬほど美しい女だった。
灰褐色の髪。印象的な金の眼。外套に包まれたしなやかな体――ああ!
誰だも何も、あの醜女だった。権はあの金の眼に見覚えがある。だが、あの醜い傷痕は? 一体どこへ消え去った?
「あの方はもしや、例のお客人では?」
若い文官が二人、竜胆の庭に立つ恋人たちの姿を見ながら、興奮気味にひそひそと囁き合っていた。
「そうに決まっている。正に絵から抜け出たようなお二人だな」
「本当に。公子もあの通りの美貌だし、客人の方も、この世のものとは思えぬほどの美しさ、九尾の姫という噂だが、本当にそうなのではないかと思ってしまうな」
権は文官の胸倉をつかんだ。
「どういうことだ。あれは、獣ではないのか」
胸倉をつかまれた文官が、怯えつつも不思議そうに言った。
「獣と言っても、九尾なれば」
もう一人の文官も同僚を庇うように、
「古来より、九尾の狐が人の姿を取れば、絶世の美男美女になると言われております」
「……」
権の腕から力が抜けた。
文官たちはその隙にそそくさと立ち去る。
――仕方ないじゃない、獣なのだもの。
いつも、そうだ……。
母に教養がないせいで、割を食うのはいつも権だった。
若い文官二人が逃げ出した後も、入れ代わり立ち代わり、竜胆の野に佇む二人を見物する人影は絶えない。
権が見ている目の前で、璇が娘と額を合わせた。
娘の目は熱っぽく潤み、一途に璇だけを映している。
あの金が。璇を。璇だけを。
璇が娘を抱え上げた時、人だかりから歓声が上がった。
「おお、これはこれは」
「淡白な方だと思っていましたが、なかなかに情熱的ですね」
「そりゃああなた、あんな美女にあんな目で見つめられたら」
権がこれから年寄りの相手をする間、療養中であるはずの璇は、療養中の身でありながら、娘の肌を余すところなく味わうのだろう。
怒りで体が張り裂けそうだった。
権の妻となるはずだった女を、卑怯な手段で横からかすめ取った異母兄を、権はどうあっても許すことが出来そうになかった。




