34.一番美しいわたし
先々の不安が決して一掃された訳ではないが、ひとまずあちらの関係者との対話を果たし、それなりの感触を得たと思っている璇と、神獣にあるまじき無分別を咎められ、愛する男との別れを余儀なくされた子季の、対照的なそれぞれの夜が明けた。
翌朝、寝不足の子季が重い足を引きずって璇の様子を見にいくと、璇は柔らかく差し込む朝の日差しの中で、無心に眠っていた。
「ふふ……よく眠ってる……」
昨日の雨降りの疲れが出たのだろうか。
子季は寝台の前に腰掛け、璇の額や首筋にそっと手を当てた。
熱はないようだ。さては夜更かしでもしたか……。
さらり、と璇の髪を撫でる。
本当に、綺麗。
指の間を流れ落ちる、しっとりとした射干玉の黒は、子季にはない神秘的な色合いで。
何も知らず、大人しく子季に髪を撫でられている璇の寝顔が、ふいに涙で霞んだ。
お前の許を去っていくわたしを、どうか責めないで……。
璇も子季も、もとより己の一存で伴侶を選ぶことなど出来ぬ身である。璇とのことはひと時の夢だったのだと、子季は自分の心に言い聞かせるしかなかった。
花の上で揺れる朝露のごとく、目が覚めてしまえば儚くこぼれ落ちる夢。
けれど、最後の命が尽きるまで、子季は決して忘れないだろう。青い青い竜胆の野で出会った、あまりにも優しく、愛おしい夢を。
「珍しいの、公子がまだ起きておらぬとは」
「巫婆、丁度良かった」
後ろから声をかけられ、子季は慌てて笑顔を作った。
「璇が眠っている間に湯浴みしてくる。後をお願い」
「こんな朝からか」
「あ、うん……」
子季がもじもじと下を向いた。
「――もしや、公子の為か」
なんで分かったんだろう……。
子季は懐に忍ばせた美容丸を衣の上からそっと握った。
璇との別れが必定であるならば、せめて璇には、一番美しい子季を記憶に留めておいてほしい。
これは璇の為というより、子季の自己満足のようなものだった。
恥ずかしそうにうつむいたまま、黙っている子季に、「そうか……」と巫婆は感慨深げに頷いた。
「まあ、公子も嫌とは言わぬじゃろうが、そういうことは公子のお身体がもう少し回復して、お元気になってからでも……」
「巫婆」と子季は枯れ木のような手を取り、巫婆の言葉を遮った。
「わたしには、それを待っている時間はないんだ」
ふっ、と悲しげな笑みを浮かべ、子季が素早く身を翻す。
「璇をお願い!」
「待て、早まるな!」
何やら思いつめた様子の子季を、巫婆が追いかけようとした時、寝台から気だるげな声がした。
「……朝から何事だ」
湯浴みの用意をしてもらい、子季は緊張した面持ちで美容丸を湯の中に落とした。
よく混ぜて、と言われていたが、混ぜるまでもなくそれは細かな泡を噴き出して湯に溶け、透明な湯を白濁色に変える。
骨まで溶かしてしまいそうな、おどろおどろしい白煙が立ち上った。
子季は一瞬怯んだが、思い切って、ちゃぷ、と足先から湯に浸かった。
あれ、気持ちいい……。
得体の知れない雰囲気ではあるが、やはり湯浴みは湯浴みである。温かい湯が強張った心と体をほぐし、あー……という吐息が漏れる。元の世界に戻っても、湯浴みの習慣はきっと忘れられないだろうと思う。
こんな時なのに、なんだか心が落ち着くな……。
姐さんの優しさが溶けた湯は微かに、たくさんの生き物と花と落ち葉の、懐かしい山の匂いがした。
全身、浸かるんだっけ……。
子季は膝を抱えて、頭のてっぺんまで湯の中に沈めた。絹のように粒の細かい気泡が肌を伝う。子季は何も考えず、湯の中でぼんやりと揺蕩った。
何もかも忘れ、生まれる前に戻るように。
ずるり、と皮膚が動く感覚があった。
はっとして湯から顔を出し、頬に手を触れる。ずるり――ずるり、ずるりと蛇の脱皮のように、肌が脱げて湯に落ちてゆく。
子季は人間の娘のような悲鳴を上げた。
「子季!」
いつからそこにいたのか、衝立の陰から璇が飛び出してきた。静養中であるはずの公子はすっかり衣服を整え、何故か腰に剣まで佩いている。もしや番とやらをしていてくれたのだろうか。右手には万一の時に子季に着せる為であろう、子季の薄物を握っていた。
子季は湯に浸かったまま、呆然と璇を見上げた。
璇は子季の顔を見るなり、雷に打たれたように立ち尽くした。
「子季……」
白煙の立ち込める湯の下に視線を移そうとして、思い留まる。
「璇、お願い、出ていて」
言われて初めて気づいたように、璇が子季に背を向けた。「すまない」と短く詫びて、衝立の向こうに消える。
子季は震える手で左頬に触れた。
そこにあるのは傷ひとつない滑らかな肌で、先程まで刻まれていた火傷の紋様など跡形もない。
湯に目を落とすと、脱げた皮膚が白煙の下でゆらゆらと漂っていた。
――成程、こういう……。
子季は自分が絶世の美女に戻ってしまったことを知った。




