33.思いの丈
何執事が消えた漆黒の闇の中とは、口を開けた大きな布袋の中であった。
綺麗な弧を描いて窓から飛んだ銀狐の姿が、図ったように袋の中へ吸い込まれると、袋の口がたちどころにキュッと縛られる。
よいしょ……と肩に担がれる気配がして、「今日は窓から出てくると思っていた」と、ほっとしたような涼やかな声がした。
「さすがにもう、徐山河と鉢合わせしたくはなかっただろうしな」
心情を慮るようにそう言われ、ぽんぽんと腹の辺りを撫でられる。何執事は袋の中で歯噛みした。
どこへ運ばれていくのだろう。
涼やかな声の主は、迷いのない足取りで、いずこかへ向かっていた。
遷山の天狐である何執事にとって、人が仕掛けた罠に嵌るなど、生まれて初めてのことである。何執事が普通の狐のように呆然と運ばれていると、やがて扉が開いてまた閉まる音がした。部屋の中に入ったらしい。
更に数歩進んだところで、何執事はそっと床に下ろされた。
袋の口が緩められ、何執事は警戒しつつも、尻からそろそろと外へ出た。
眩しさに思わず目を細める。
連れ込まれたのは、書庫のような小さな部屋だった。
中は既に明かりが灯され、心地よく暖められている。何がしたいのか、茶器まで用意されていた。
何執事をここまで運んだ男は、少し離れたところに立っていた。胡服をまとった結構な美男子――果たして、不倶戴天の袁璇であった。
「何大人とお見受けする」と、璇は年長者への礼をとった。
「私は茱の袁璇と申す者。先般、我が国の領土で傷を負われた子季娘娘をお助けし、今も拙宅にてご静養いただいている」
何執事は謝意を示すように鼻先を下げた。それについては感謝している。本当に。
璇は涼やかな目を細め、思いもよらない一言を放った。
「子供の頃、娘娘のおわす竜胆の野に迷い込んだことがある」
何だと?
それだけでも驚きだが、後に続いた言葉が何執事を更に驚かせた。
「命を救われた」
何と――。
――璇は……あの子だったんだ……。
意味がよく分からなかった子季の言葉が、唐突に凄まじい意味を持った。
璇は狐相手に茶を勧めるという愚は犯さなかったが、狐に向かって一方的に話しかけるのを止める気はないらしい。目の前の銀狐が、まるで人間の士大夫であるかのように、一向に動じず語りかけてきた。
「子季のことだが……思うに、子季は己が命を気の流れのようなものに変え、思いのままに操ることができるのではないか」
何だ、藪から棒に。
何執事は俄かに警戒した。誰に教わったということもなさそうだが、ほとんど合っている。
「そうして流れに変えた命を、こう言っては何だが、惜しげもなく使ってしまう。……子季は、優しいから」
その通り、大変お優しい方だ。お優し過ぎて困っている。
何執事は己が深く頷いたことに気づいていなかった。
「流れに変えた命は、使ってしまえばそれで終わり。だが、天寿を生き抜いた場合、次の命はまた赤子から始まるのだろう」
「……」
違うか? と問われた銀狐は急に狐ぶって、のんびりと他所へ目をやった。
これは細やかに子季の言動を観察し、虚実入り混じる膨大な文献を紐解き、そうして得た知識を重ね合わせて到達した結論であろう。
だが、何執事は璇が何故、このようなことを何執事に語って聞かせるのか、彼の意図をはかりかねていた。
よく分かったな、とでも言ってほしいか。それとも、多大な時間と労力を費やし、この事実を突き止めたことをもって、愛の証と言い立てたいか。
そのどちらでもなかった。
毅然として涼やかな目が、まっすぐに何執事に向けられた。
「子季にはこれより、ひとつたりとも命を無駄にさせぬと誓う。今生の生を全うさせることも、我が名において約束する」
銀狐がゆっくりと璇に向き直った。
「子季の夫となられる予定だった方も、どのような方が知らぬが、子季同様の不思議の身であろう。人の一生など、瞬きの間に終わるはず。無理を承知でお願いする」
鳳凰が羽を開くように、璇は鮮やかに袍の前を払った。次の瞬間、地に膝をつけている。
「どうか、今生の子季を私に譲ってもらえまいか」
表情から察するに、本当は、次の世の子季をどうぞというのも不本意なのだろう。だが、本来交渉出来る立場ですらないことも、この現実的な公子はよく分かっている。
これは恐らく彼なりの、ぎりぎりの落としどころなのだった。
流れるように跪拝しようとする璇の懐に飛び込み、何執事は鼻先で胡服の胸を押し上げた。
――止めよ。
両者はどちらも無言で相手の目を見つめた。
拠って立つところは違えど、「大事なのは子季」という点では完全に意を一にする両者である。通じ合うところがないはずがない。
璇が何執事の首の後ろを撫ぜた。
何執事はすっと目を細め、大人しく撫でられた。
「――舅殿へ、ささやかながらご挨拶の品を用意した」
璇は狐の首に巻きつけるのに丁度よい長さの布を取り出し、優しく何執事の首に巻いた。
「苦しくないか」
ない。
「そうか」と、璇は涼やかに笑った。
「気に入っていただけるとよいが」
中に入っているのは、見事な大粒の真珠である。
贈り物の選別に当たっては、「九尾の長は山のお方なれば、海の宝の名品は、それほど多くお持ちではないかもしれません」という太卜令の助言に従った。璇は子季と再会を果たして以来、太卜令を頻繁に招き、幽界について熱心に講義を受けている。璇が時折、子季にご披露している謎の知識の出どころはこの人である。
真珠は母の持ちものだった。王族の輿入れ道具は目録がある為、何ひとつ魏氏の好きにはならず、ほとんどは璇が譲り受けることが出来た。
大切な形見だが、使いどころは絶対に間違っていない。
「長々と引き留めてすまなかった」
思いの丈など、まだ全然言い足りなかったが、璇は扉を大きく開いた。あまりしつこくするのも心証が悪いだろう。
開いた扉から、何執事がさっと出ていく。
黒にも見える、美しい銀の背に向かって璇が叫んだ。
「――徐山河から伝言だ! 『あなた様が何者でも、また一緒に六博をいたしましょう』と!」
その瞬間、しなやかな銀の背がはっきりと波打った。
すすきの野が揺れるように、一瞬ぶわりと大きく広がった背は瞬く間に闇に消える。
「あ……舅殿によろしく……」
璇は言い忘れていた一言を、口の中で呟いた。




