32.告白
天から幾筋もの雨が降っていた。
「璇、体がつらいなら、わたしにもたれて」
「もう治った」
「嘘をつけ」
璇の主室の前の階段で、雨宿りをする二匹の子狐のように、並んで座って静かに雨を眺める。
「雨も、いいものだな……」
「そうだね」
主の庭に据えられた見事な仮山石の、木のうろのような空洞を穿つ幾千もの雫は、見ていていつまでも飽きなかった。
「ねえ、璇」
毒殺されかかったから、という理由はさておき、降ってわいたような璇の休暇に、昼日中から二人でのんびりと過ごしていた時のことである。
「お前はどうして、お前の造った竜胆の庭にわたしを連れていってくれないんだ?」
「えっ⁉」
子季は何気なく訊いただけだったのだが、璇はあからさまに動揺した。
「し、子季、お前、何故それを……」
普段は涼しげに澄ましている璇が、ここまで取り乱すのも珍しい。
「……もしかして、秘密の場所だったのか?」
「あ、いや、違う。違うが」
知っていたのか……と顔を覆う璇の耳は真っ赤になっていた。
「わたしも竜胆が好きなんだ。一緒だな」
子季が少し照れながらそう言うと、璇は勢い込んで子季の手を取った。
「今から行こう」
「え? 雨だよ?」
子季は一向に構わないが、璇はまだ本調子とは言い難い。気軽に雨の中を連れ回したくなかった。
「じゃあ明日。明日だ。明日にでも連れていく」
「うん、明日、晴れたらね」
子季は優しく微笑んだ。
雨脚は弱く、遠くの空は明るい。明日はきっと晴れるだろう。
楽しみだな……とその夜、うきうきと褥に入った子季の肩を、控えめに揺する人間の手があった。
「お嬢様、お嬢様」
「うーん……あ、じいや」
子季は緩み切った笑顔を何執事に向けた。
「まったく……。さしずめ、ここで下にも置かぬもてなしをうけて、すっかり帰る気をなくしてしまったというところでしょうか」
「あっ」
しまった。忘れていた。
「そ、そういうんじゃないけど」
「袁璇との約束というのは? ちゃんと果たされました?」
「あ、ええと……」
何執事は首を振りながら、やれやれとため息をついた。
「すっかり本分をお忘れのようですな」
「そ、そんなこと……」
「お嬢様、帰りたくないのでしょう」
核心を突かれ、子季はびくりと肩を揺らした。
「そんなことではないかと思いました……。袁璇のもてなしは大変結構ですが、ここに居座りたくなるほどであれば、本末転倒です」
無言でうつむく子季を横目に、何執事は薄闇でごそごそと蠢いた。
「そんなお嬢様にいいものをお持ちしました」
「えっ、なになに」
「ご夫君からの文でございます」
――ご夫君?
一瞬の間を置いて、子季はぎょっと目をむいた。
「は、破談になったんじゃ……?」
「何をおっしゃいます。さすがは泰山府君の右腕と言われるお方、こちらも包み隠さずありのままをお話しいたしましたが、そんなことでお嬢様を娶る意思は揺るぎもせぬと」
俄かには信じ難い話である。
「本当にちゃんと説明した?」
「いたしましたとも」
何執事は早く見ろと言わんばかりに封套をぐいぐいと差し出す。
子季は風で摩擦を起こして燭台に明かりを灯し、恐る恐る封套から文を取り出した。
――愛する子季さん。
「うわあああ。じいや、もしかしてこれ読んだ⁉」
「読む訳ないでしょう」
――業務過多、ままならぬ身にて、おそばに駆けつけられぬことを心苦しく思います。お身体の具合はいかがでしょうか。どうぞ無理せず、ごゆっくり養生ください。
普段から文字を書き慣れている人の、美しい手跡である。文章は簡潔で無駄がなく、最後はこう結ばれていた。
――お会いできる日を心待ちにしております。英寧
えー……。
夫となる人が、妻に出すならこのように、としか言いようのない、親しみと労わりのこもった、お手本のような文だった。
「会ったこともないのに、なんで」
子季は首をひねるばかりである。
本当は嫌だが、府君の手前、断るに断れないのだろうか。
うーん、と頭を悩ませている子季の傍らで、何執事がごそごそと懐を探った。
「更に」
「今度はなに」
何執事が取り出したのは、塗りこめたような黒い光沢を放つ、小さな丸い玉だった。
「宋黄玉と名乗るご婦人から預かってきました」
「誰……?」
「何でも、『あの時、助けていただいた蛇です』と」
「ああ、蛇の姐さんか」
それなら心当たりがあった。
子季が嫁ぐ数日前のことである。獲物を丸呑みしたばかりの、腹の膨らんだ蛇が、岩場の細い隙間を無理やり通ろうとして詰まっていた。通りかかった子季が風で岩を吹き飛ばして助けたところ、蛇はすべすべの肌で子季の腕に巻きつき、礼のつもりか苦しげな腹を折って鎌首を下げた。子季は笑いながら「いいから、お行き」と頭を撫でてやったのだが、そう言えばあの姐さんは、綺麗な黄玉の目をしていた。
「ご自身の精粹から作った美容丸だそうです。お嬢様の火傷のことを聞き及び、急ぎ練り上げたとか。どうぞお使いくださいとのことでした」
「な、なんて貴重なものを……」
「本当ですね。使用方法ですが、桶に水か湯をはり、その中にこれを入れて全身浸かるといいそうです。よく混ぜてくださいね、とおっしゃっていましたよ」
「ありがとう、嬉しいよ」
美肌を誇る蛇の姐さんが、自らを原料として作ってくれた究極の美容丸である。あの巫婆でさえ「どうにもならぬ」と言っていた傷痕が、少しは薄くなるのではないか。
ふふ……と小さく笑って、子季が手の中で美容丸を転がしていると、
「お嬢様、元気がありませぬな。ここを立ち去りたくない訳が、もしや他にもおありなのですか」
「……」
やっぱり、じいやには分かってしまうか……。
いつまでも隠し通せるものではなく、また、隠したままでいいはずもなかった。
子季は意を決して口を開いた。
「うん……あのね……」
辺りはしんと静まって、虫の鳴き声ひとつしない。
地を打つ雨音もいつしか止み、震える子季の声だけが、夜の静寂をゆっくりと引き裂いた。
「璇は……わたしのことが、好きなんだ……」
「何ですって⁉」
何執事は色をなして子季に鋭い視線を向けた。
「どういうことです。袁璇はお嬢様の正体を知りもせず、そんなことを言っているのですか」
「ううん……知っている……」
「では、お嬢様を利用しようとしているのではありますまいな!」
「それは……違う……!」
知らぬと言えば厳しく覚悟を問われ、知っていると言えば思惑を疑われる。九尾に求婚する人間など、どちらに転んでも糾弾される運命だった。
ぽろり、と金の眼から涙がこぼれた。
「璇は……あの子だったんだ……」
あの竜胆の野原で、わたしを撫ぜた小さな子は――。
生を求める強い眼差しに、どうしようもなく惹かれた。息が止まるほど引き寄せられた。
失いたくない。それだけだった。
先に心を奪われたのは、子季の方だった。
「それでね、じいや……」
しゃくりあげながら、子季が言葉を続ける。
「わたしも……璇が好きなんだ……!」
胸の内を吐き出して、子季は激しく泣き出した。
何執事は頭を抱えそうになった。
何と幼い、子供のような告白だろう。琉の奴めが甘やかすから。
だが、相手が悪過ぎる。よりにもよって人間の男など。
「お嬢様、いい加減になさい!」
子季の体が鞭打たれたように大きく跳ねた。
「府君に賜ったご縁を、よもや侮辱なさるおつもりですか」
子季が慌てて首を振る。金の涙がはらはらと散るが、何執事は険しい表情を崩さなかった。
「ならば結構――」
前途洋々たる李録事との縁談は、家格の違いに目をつぶれば、子季にはまたとない良縁だった。一連のやり取りから垣間見える、彼の人柄も申し分なく、何執事の大事なお嬢様を任せるに足る人品と言えよう。はしかのような一時の熱に浮かされて、ふいにしていい縁談ではない。
お嬢様の幸せは、李録事のような方との婚姻にこそある――。
「私は先に帰ります。お嬢様はしばし、頭を冷やされますよう」
ひっく、ひっく、としゃくりあげながらも、子季は怪訝そうな顔をした。
首根っこをつかんででも、連れて帰られるところでは……と金の眼が問うている。
「別れを告げる時間を差し上げます」
似たような形が出来るとはいえ、考え方も風習も違う。苦労することが分かっていて、人間に降嫁などさせられる訳がない。だが、このまま無理に連れ帰っても、子季はいつまでも引きずるだろう。
自分の手で区切りをつけさせ、袁璇のことは諦めさせる。この時点では、何執事はそれが最善だと信じていた。
大事な大事なお嬢様。決して不幸になってはならない方。
「じいや……」
か細い哀願の声に応えることもなく、何執事は一回転して大きな銀狐の姿になった。
今日は扉からではなく、窓から帰るつもりである。何執事は鼻先で窓をちょいと押し上げ、細い隙間から難なく出ていく。
「じいや……!」
何執事は振り返ることなく、漆黒の闇の中へ消えた。




