31.おかしな真似(下)
久々の屋外も、久々の狐の姿も、どちらもとても楽しかった。
長い療養生活で体が少しなまっていたが、走り出してしまえばすぐに獣の勘を取り戻す。子季は寄り道もせず水の匂いを辿り、川に出た。岩場の隙間に脂の乗った鮭がひしめき合っている。
……ニ、三匹でいいか。璇が気に入ったら、その都度獲りにくればいいんだし。
ひっきりなしに川を渡ってゆく獲物の動きを見定め、上から一瞬で喉を銜え込む。こうすると、まるで麻痺してしまったように、魚は動きを止めるのだった。
持参した籠までとことこと歩き、えい、と鼻先で蓋を押し上げて獲物を中に入れる。
療養明けの身にも容易い狩りを済ませ、子季は悠然と帰途に就いた。永逸宮を四刻(約一時間)と離れていない。
人の姿に戻った子季が、何食わぬ顔で「これを厨房に」と籠を従僕に渡していると、血相を変えた璇が走ってきた。
「子季!」
『璇、動いていいのか』
「いい訳ないじゃろう!」
後ろから巫婆の怒り狂った声がする。
次の瞬間、子季は璇の腕の中にいた。
『璇……? お前の為に、鮭を獲ってきた』
「お前に何かあったかと思った……」
二人の声はほぼ同時だった。璇が抱きしめる子季の体は、心なしかしっとりと濡れている。
子季は璇の背をぽんぽんと撫でた。
『大袈裟だな。すぐ戻ると標を残しておいただろう』
「どこに」
『卓の上に……まさか、風で飛んでいってしまったか?』
子季は慌てて璇の部屋へ戻った。
――あった。
子季が「コ」という形に並べた木の葉は、一糸乱れずそのまま残っていた。山では横二枚、縦二枚、もう一回横二枚の、都合六枚で事足りるが、人間たちの目では見落とすかもしれないと、子季はわざわざ十五枚も使って並べている。
これが目に入らないなんて。
子季は憤慨して床をだん、と踏んだ。
『ほら、これ!』
「いや、ちょっと待て」
璇が子季を抱き寄せた。そうしないと死ぬ、というように。
「これは、『すぐ戻る』という意味なのだな……?」
『あ、うん』
「分かった。覚えておこう」
そもそも枚数の問題ではなかったことに、子季が遅まきながら気づいた時、璇の体から力が抜けた。
『巫婆! 璇が!』
意識を失った璇は、即座に寝台へと運ばれていった。
「本当にあなた様方は人騒がせじゃ!」
ここぞとばかりに子季は二人分叱られる。
「娘子? おかしな真似はせぬようにって言われてましたよね?」と、蘭舟にも笑顔で叱られた。
だって、璇の喜ぶことを……。
――難しく考えなくていいですよ。娘子のお心のままになさればいいのです。
心のままにやったのに……。
とぼとぼと璇の部屋を出、子季が扉の前でしょんぼりしていると、蘭舟が中からぬっと顔を出した。
「妙な気配がするから、魑魅魍魎でもいるのかと思いましたよ」
その推測はあながち的外れでもない。
「ここで何をしているんです」
『璇が心配で。様子はどう』
「落ち着いていますよ。そうではなくて、どうして中に入らないのですか」
自分がひと騒動起こしたことは理解している。子季が入っていいのかどうか迷っていると、蘭舟は呆れているのか笑っているのかよく分からない顔になった。
「早くお入りください。目が覚めた時にあなたがいなければ、また面倒なことになりそうです」
子季は恥じ入るように顔を伏せ、大人しく蘭舟の後について部屋に入った。
蘭舟は子季を寝台まで先導すると、「私は扉の外に詰めておりますから、何かあればお呼びください」とさっさと出ていった。
去り際に、「じきに目を覚ますだろうと巫婆が行っていましたよ」と言われ、子季は目が覚めたら何を言おうかと思案する。
心配をかけてごめん、だろうか。やっぱり。
麗しいお顔に血の気がない。
子季は泣きそうになって璇の頬をぺろ、と舐めた。
今は人の姿に戻っていることも忘れ、柔らかい娘の頬を、冷たい頬にそっとすり寄せる。
しばらく無心でそうしていると、璇の手が優雅に動いて、子季の後頭部に添えられた。
「お前、私とそういうことをしていいのだな」
『璇、目が覚めたのか……』
力なく目を開いた璇は、髪をほどいていることもあってか、まるで病弱な姫君のように上品な色香を漂わせている。
璇はそのまま子季の後頭部を引き寄せ、獣の子がじゃれ合うように、すり、と鼻をこすり合わせた。
『あっ、ちょっと、璇……』
唇がかすめそうになった。
子季が慌てて身を引こうとすると、璇は苦しげに眉を寄せて呻く。
「子季、腕が……」
刃物でやられた腕が痛むらしい。
ごめん、と詫びながら、子季が今度はそろそろと離れようとすると、璇はすかさず、「待て、痛い」と訴える。
いや、お前が手を離せば、それで済む話……。
何か釈然としないものの、子季が少しでも離れようとすれば、璇はその都度苦痛に顔を歪める。子季は離れるに離れられず、大人しく璇の戯れを受け入れるしかなかった。
おのれ、妙な真似を……。
唇が何度も危うく触れそうになる。その度に子季の心臓が大きく跳ねた。命を大事にしろと言った張本人が、子季の心臓をいたぶっている。
ちら、と見下ろした璇の顔は、喉を鳴らして甘える猫のようにも、爪と牙を上手に隠し、満足げに目を細める虎のようにも見えた。
子季と違って如才ない璇は、ほどほどのところで子季を解放し、「額の汗を拭いてくれ」と可愛らしくねだった。
どちらかというと、ぐっしょりと汗をかいているのは子季の方で、璇は涼しい顔をしている。
こうして、いかにも健全に看病されているような雰囲気が出来上がった頃、扉口から声がかかった。
「公子、お食事をお持ちしました」
「入れ」
静々と入ってきた芸欣が子季に愛らしく目礼し、璇に向き直って声高らかに告げる。
「娘子が手ずからお獲りになった鮭でございます!」
「それは楽しみだな」
生まれてこの方、おかしな真似など一度もしたことがないような顔をして、美貌の公子はおっとりと微笑んだ。




