30.おかしな真似(中)
「ほんとです」と、蘭舟はにっこり笑った。
「この方は茱の大将軍なんですが、人間の世界においては、軍を掌握している者が、圧倒的に有利なんです」
大将軍? 一番偉い人ではないか、と子季は目を瞬く。
璇は自身のことを一軍の将と言っていたが、あれはつまり、嘘ではないが、茱軍全体を指して一軍と言っていたということか。なんでそこをぼかすかな。
「加えて、公子は幕僚どころか兵士たちからの信頼も厚く、王家よりも公子個人に心酔している者も少なくない。宮廷人たちはそれに気づいていないのか、気づいていて軽視しているのか――」
蘭舟はフッと冷笑した。
「或いは、軍の指揮権など、いつでも取り上げられると高をくくっているのか、指揮権さえ取り上げれば、公子の指揮下で最強を誇る茱軍の力をそっくりそのまま引き継げるとでも思っているのか、私にはまったく分かりませんが、例えば今後、もし権公子が王になったとして、その専横を討つという名目で璇公子が速やかに挙兵すれば、勝つのは璇公子でしょうね」
『そうなんだ』
へえー。璇はやっぱりすごいんだ。つまり、璇は元々、わたしの助けなど不要だったという訳か。
「ただ、そうなると兄弟間での殺し合いは不可避ですよね」
『父王はそれを警戒しているから、未だに太子を立てないのか』
そこはずっと疑問だった。国家の安定の為、太子は早く立てるのがよいとされる。茱のような大国で、二人の公子の年齢を考えれば、太子はとっくに決まっていてもおかしくない。
「どうでしょうね。王たる者のお心は、私には推測しようもありませんが。宮廷人たちが日和るほどの寵愛を与え、王后にもかなりせっつかれているでしょうに、未だに権公子を太子にしないのは、王としての判断なのかもしれません。つまり、権公子より璇公子の方が、王の器であることを、他の誰でもない王が一番よくご存知かと」
『じゃあ璇を太子にすればいいのに』
蘭舟は何度目か分からない苦笑を浮かべた。
「それもまた、簡単なことではないのでしょう。父の情としてはやはり、気に入りの息子に後を継がせ、そうではないが秀でている方に臣下として支えさせたいのだと思います。ですが、権公子が王になれば、璇公子を生かしてはおかない。となると璇公子も受けて立つしかない。王はそれもよく分かっているのでしょう。壮健な方でしたが、このところ心労が祟って、随分弱っておられるとか」
『何が心労だ! 璇が受けてきた仕打ちに比べれば、そんなものは物の数ではないだろう!』
怒りに子季の声が震えた。
蘭舟が一瞬、雷神のような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みの中にくるんだ。
「その人の持って生まれた器によっては、本当にたかだかその程度のことが、耐えがたい心労となることもあるのです」
静かではあるが、腹の底にのしかかるような重い声だった。
ああ、そうか。王に怒りを覚えているのは、子季よりもよほど――。
『……お前は本当に不遜だな』
それはほとんど賛辞だった。こんな物言いをする人間がいるとは、なんとまあ、愉快。
『お前は人の世の序列や決め事に、あまりとらわれないのだな』
「我が主もそんな感じですけどね」
『そう?』
「ええ。あなたと添うことが出来るのなら、人の世を捨てて、さっさと入り婿になることも厭わぬのではないかと危惧しております」
子季がぱっと赤くなる。
「連れていかないでください」と、蘭舟が低く囁いた。
「私はこの方が王となられるのを見たいのです」
「お前――」
子季は金の眼をすうっと目を細めた。
この男は、璇の前ではそんなことをおくびにも出さず――。
『……忠義だな、呉蘭舟』
「そうですね、巫婆には忠犬などとよくからかわれております。あの方にはこちらの思いなど、言わずともすべてお見通しで……娘子?」
子季が璇の掛布団をぎゅっとつかんで何かに耐えていた。
「ああ、すみません。天敵でしたっけね。娘子のようなお方でも、やっぱり無理なんですか?」
『無理。犬は無理。向こうも問答無用で襲い掛かってくるし、こっちも必死で逃げる』
あらー、と同情的な眼差しを向ける蘭舟に、子季は弱々しく微笑んだ。
『どちらかと言うと、お前は大空を舞う荒鷲みたいだと思った。さっきもつい、見惚れてしまったよ』
「娘子、滅多なことを。公子が妬いてしまいますよ」
『これくらいのことで?』
「いやいや。意外とね」
子季は璇の冷たい手を取った。
『……早く目を覚まして、妬くほど元気なところを見せてくれたらいいのに』
手首に指を滑らせ、弱々しい脈を確かめる。
そのまま両手で璇の手を包み、そっと頬に当ててすり寄せた。
「本当に、意識のないのが可哀相ですね……」
『うん……』
蘭舟が本当に気の毒がっていて、主思いなのだなと改めて思う。
「公子の目が覚めたら、公子が喜ぶことをいっぱいして差し上げてください」
『璇が喜ぶこと……?』
「難しく考えなくていいですよ。娘子のお心のままになさればいいのです、今のように」
『分かった』
それなら簡単だ。子季は嬉しそうに頷いた。
その後、「ちょっと出ますね」と蘭舟が中座し、後に残ったのは、特にすることもない子季だけだった。巫婆は一度様子を見にきたが、璇の呼吸を確認し、すぐに出ていってしまう。
閑人に優しく見守られていた璇が、ようやく目を覚ましたのは、日が暮れかかっている頃だった。
『あっ、目が覚めたか?』
当然のように子季がいて、「調子はどうだ?」「水でも飲むか?」と優しく璇に語りかける。
璇は柔らかく目を細め、布団から両腕を差し出した。
子季は彼の上に屈み、彼の腕の中に収まった。
「また……お前に命を助けられたな……」
『よく言う。わたしを助けたのはお前じゃないか』
璇が小さな声で囁いた。
「そばにいてくれ」
『そのつもりだ。ここでずっとお前を看病する』
璇がそうしてくれたように、そばにいて、頬を撫で、薬を飲ませ――。
「そうではなく……いや、いい」
璇はにこっと微笑んだ。
「喉が大分……良くなっている。懐かしいお前の声に近い」
ああ、言われてみれば、以前より声が出しやすい。
野の獣のように鋭い璇は、子季のどんな変化も逃さぬようだった。
『いいから。何か食べられるか?』
「んー……」
鼻に抜けるような、甘い声が伝えようとしているのは、是なのか否なのかよく分からなかった。
やがて訪れた王家の侍医が、行軍の疲れによる発熱、という診断を下し、璇はしばし、永逸宮での静養を許された。
第一公子暗殺未遂は重罪である。
もし事件が明らかになれば、誰か適当な者が犯人として差し出され、単独犯として処理される。それが分かっているから、璇は「無辜の命を奪うだけだ」と真相を明かさなかった。
こうして「病弱な公子様」という印象が定着し、「権公子とは違って、王としての公務に耐えられぬお体」と囁かれる。だが、一たび戦になれば、その同じ口が「ご武運を!」と大合唱で璇を戦地へと送り出すのだ。
「『病弱で頼りない』公子様を、よくも戦地に送れますよね?」と蘭舟は吐き捨てた。
そんな事情を聞いてしまえば、尚更璇のそばを離れられなかった。
借りてきた猫のように、子季に大人しく撫でられながら、璇はゆっくりと回復していった。
そろそろ何か、精のつくものを食べさせないとな……。
とある日の昼下がり、よく眠っている璇の枕元で、子季はそんなことを考えていた。
――公子が喜ぶことをいっぱいして差し上げてください。
蘭舟にもそう言われている。そうだ、璇が子季の為に蘆薈を採ってきてくれたように、子季も滋養たっぷりの美味しいものを璇の為に獲ってきてやろう。
我ながら素晴らしい思い付きだと思った。璇はきっと喜んでくれるに違いない。
そうと決まれば、子季はいそいそと璇の部屋から顔を出し、周囲を見回す。
主が毒に倒れ、未だ療養中であるからか、宮の使用人たちは皆、慌ただしくしていた。
些細なことで呼び止めるのも気が引けて、子季は「すぐ戻る」という符丁だけを卓に残し、永逸宮をするりと抜け出した。




