3.襲撃
「何事だ」と轎から這い出した子季の鼻先を、炎をまとった矢が掠めた。
「お嬢様!」
「大事ない。それより、これは一体」
皓々たる月明かりの下、明らかに子季の一行を狙って火矢が次々と飛んでくる。子季を素早く背に庇いつつ、護衛が険しい顔で首を振った。「分かりません」
それはそうだ――と子季も納得するしかなかった。誰にも分かるはずがない。九尾の狐の輿入れ行列が襲撃を受けるなど、前代未聞のことだった。
人間たちの住む明界において、九尾の狐は瑞獣とされている。
その輿入れを偶さか目撃した人間は、己の僥倖を喜ぶことはあっても、襲おうなどとは夢にも思わない。幽界においては言わずもがな、九尾は最高位の神獣であり、更にはこの度の縁談が、泰山府君直々の取り計らいであるということを知らぬ者はいなかった。
子季は細い指でこめかみを押さえ、辺りを見回した。丁度、幽界と明界のあわいを通っていた時で、開けた野原には身を隠す場所もない。
「遷山の九尾、趙家の子季公主のお輿入れと知っての狼藉か!」
何執事が文字通り矢面に立ち、降りかかる火矢を薙ぎ払いながら吼えていた。
「ハハハ! 妖狐め。思い知れ」
「ほれ、尻尾を出したぞ」
若い男たちの昂った声が風に乗って聞こえてきた。声のする方に目を凝らすと、身なりの良い人間の若者たちが目を爛々と輝かせ、楽しげに火矢をつがえている。
「我が眷属が先に何かしたのか」
それ以外に、このような仕打ちを受ける理由が、子季にはまったく思い当たらなかった。
「お嬢様、こちらへ」
護衛が子季を背に庇いながら、轎の陰に誘導した。背後で獣の鳴き声のような悲鳴が上がる。子季がはっと振り返ると、地を転がり、体についた火を消そうとする同胞の姿が見えた。
「いけません!」
飛び出そうとする子季を、護衛が押し止めた。
「どうして……」
いわれのない攻撃を受け、すぐ目の前で同胞が苦しんでいる。
「それ、命中だ!」
人間の男たちのいる辺りから、わっと華やいだ声がした。
輿入れの列の後方から火の手が上がる。
「……荷車のひとつがやられたようです」
子季はいよいよ顔色を失い、地面に手をついた。何執事以下、皆が奮闘を見せているが、降りかかる火矢をすべて防ぐことなどできるはずもない。
悔しさに子季の体が震えた。
炎が爆ぜる。黒煙が渦巻き、目に涙が滲む。
花の形の狐火を的にされ、火は面白いように燃え広がっていた。
何執事が護衛の一人を呼び寄せ、何事か指示した。
「じいや!」
今度こそ、子季は護衛の手を振り払って飛び出した。何執事が何を言っているのか、聞こえずとも分かった。ここは私に任せて、お前たちは先へ云々だ。
「駄目だ。じいやは死ぬ気だ。させるものか」
そんなことをすれば心臓が持たないと分かっていたが、子季は一瞬も躊躇しなかった。
子季の周りの大気が震え、今宵の為のゆったりとした赤い袖が風に翻る。
「なりません、お嬢様!」
悲痛な表情を浮かべて手を伸ばす護衛を見やり、子季はいかにも神獣らしく、泰然と微笑んでみせた。
――構わない。わたしの命は八つあるから。
「お嬢様!」
何執事の悲鳴も聞こえたが、聞こえなかったことにした。
子季の呼んだ風が渦を巻き、皆の体をすくい上げる。
「遷山へ!」
風は子季の命じるまま、怒涛の勢いで一行を運び去った。制御の利かぬ大風が、余技のごとく炎を煽る。衝撃に耐えかね、心臓を潰した子季の体が炎の中に崩れ落ちた。火龍の鱗のような火の粉が遍く地に降りそそぎ、人間の男たちが我先にと逃げ出す。
天を衝く火柱が上がった。
さらさら、さらさら――。
子季だけがぽつんと横たわる広い野原に、静かな雨が降っていた。
火柱が呼んだ雨だった。
――ああ、ひとつどころじゃない、もうひとつ失うかも……。
意識を取り戻した子季は、よりにもよって燃え残った轎の下敷きとなり、身動きひとつ出来なかった。
体中に出来た火ぶくれが痛い。
子季はぽろぽろと涙をこぼした。
わたしはいつだってこんな風に、野原にひとりぼっちだな……。
皆を山へ帰したのは外でもない自分だったが、この淋しさは理屈ではなかった。
体中に傷を負い、この広い天と地の間にたった一人。威厳も何もかもかなぐり捨てて、子季は子供のように泣きじゃくった。
だって、こんなに痛くて苦しいのに、わたしの手を握ってくれる人もいない――。
涙は後から後から溢れ出て、自分ではもう止められなかった。全身を苛む火傷の痛みが、途切れそうになる意識をその都度引き戻し、子季は気を失うことも叶わない。
痛い。淋しい。お願い、助けて。誰か来て。
子季が一人で泣いていたのは、そう長い時間ではなかった。
ふいに体が軽くなった気がして、いよいよ三度目の死を迎えるのかと思った矢先、涼やかな若い男の声がした。
「生きていたか」
いつの間にか、体を覆っていた轎がなくなっている。この声の主が外してくれたのだろうか。子季の一行を襲った人間たちの仲間かとも思ったが、男の声音は子季が生きていることに心底安堵しているようでもあった。
月明かりも狐火もとうに失せ、涙に霞む視界の中、男の顔はよく見えない。男の背が雨を受け、子季の上には降らなかった。
男が子季の涙を拭った。
「泣くな。もう大丈夫だ。すぐに手当てをしてやるから」
張り詰めていたものが緩み、急に瞼が重くなった。
もう大丈夫だと言われたから――。
優しい腕に抱き上げられ、子季の意識はそこで途切れた。
「――死ぬな、竜胆の姫」
男がそう囁いたことを、子季は知らなかった。