29.おかしな真似(上)
蟾蜍の毒はほんの少しで効果てき面、間を置いて効き始める遅効性の毒で、鋭い牙も爪も持たず、体内で毒を生成することも出来ぬ、邪まな人間どもが放ってはおかない代物である。
ただし持続性はない為、自発的に呼吸し始めるまで、根気よく呼気を吹き込んでやれば、大抵は息を吹き返す。山育ちの娘はそのことを知っていた。
子季は意識のない璇の唇を塞ぎ、懸命に呼気を送り続けた。
やがて、璇がうっすらと目を開けた。
「あ……」
『璇!』
璇は穏やかな目で子季を見上げた。
「そうか、私は死んだのか」
『何を言っている。おかしな奴だな』
璇としては、目が覚めたら子季と唇を重ねていたから、てっきりそういうことかと思ったのだが、鼻をかぷりと甘噛みされた瞬間、ここが死後の世界ではないと分かった。
璇が子季の唇を追って、顔を上にずらそうとした時、背後から子季に声がかかった。
「娘子、待たせたな」
『巫婆、丁度良かった。璇の意識が戻ったよ』
璇が縋るような目をしていることも知らず、子季はいそいそと巫婆に場所を譲った。
誰の助けを借りるでもなく、自力で身を起こした璇に、巫婆が「ほんの少しだけ、これを飲みなされ」とおどろおどろしい色と匂いをした煎じ薬の椀を手渡す。璇は苦い薬に顔をしかめながら、訥々と記憶を辿った。
「生垣の側を通った時に、棘か何かに引っかかったような……」
「はっきりと刃物でやられておる。蟾蜍の毒が塗ってあったようじゃ。慣らしておいて正解だったの」
少し離れて、璇の足元に腰掛けている子季が、ひっそりと驚愕の表情を浮かべていた。
璇が普段から毒に体を慣らしていることには、そうではないかと思っていたこともあり、それほど驚きはしなかったが、誰に飲まされるでもなく、自分で薬を飲んでいることには驚いていた。人から匙で飲ませてもらうのが、人間の薬の飲み方ではなかったのか。
「子季」
うっすらと汗ばみ、憔悴した様子の璇が、あまり焦点の合っていない目で子季を呼んだ。
『璇、寝ていろ』
「うん」
喋るのもつらそうだったが、何か言いたげである。子季が顔を近づけると、
「命に別状はないから、万に一つもおかしな真似はせぬように」
遺言のように言い残して、再び意識を失った。
お、お前、そんなことを言う為に……。
生地から団子でも作るように、子季が命をぽんぽんちぎって気軽に分け与えるとでも思っているのだろうか。
なんて信用のない……と子季が若干しょんぼりしつつ、璇の額を撫でていると、蘭舟の低い声がした。
「巫婆、どうですか」
「どこをほっつき歩いておった」
「帰るなら帰ると言ってほしいですね」
「珍しいの。ぬしらの足並みが乱れるとは。娘子の処置が早かったから大事ない。まあ当面は安静じゃな」
「運びましょうか」
「うむ」
蘭舟は寝台に身を屈め、軽々と璇を抱き上げた。
おお、と子季が感嘆の眼差しを向ける。
そのさまは大空を舞う荒鷲が、悠然と羽を広げるよう。璇はまるで、鷲の守る美しい宝玉が、人の姿を取ったよう。
子季が二人にうっとりと見惚れていると、蘭舟が肩越しに子季を促した。
「行きますよ、娘子」
『うん』
はっと表情を引き締め、大人しくついてくる子季に、蘭舟は浅く笑って言った。
「公子が目覚めた時、あなたがそばにいないと」
璇と蘭舟を先頭に、子季、巫婆、謝執事を始めとする使用人たちがぞろぞろと続き、皆で宮の主の寝室へと向かう。
蘭舟は紫檀の寝台の上に、宝玉のような璇を下ろし、さっと踵を返した。
「私は現場に行って凶器を探してきますね」
「待てい」
静かに殺気立っている蘭舟を、巫婆が面倒臭そうに呼び止めた。
「今更行っても何も残っておるまい」
「……」
足を止めた蘭舟に、「どうせ誰の差し金か明らかなのじゃから、犯人捜しも不要じゃろう?」と、巫婆は身も蓋もないことを言って、璇の脈を見る。特に問題がなかったのか、
「それより、娘子と一緒にここで番をしておれ。娘子だけでは心許ない」
巫婆はよいしょと立ち上がり、「何かあったら呼べ」と言い捨てて出ていった。
行っちゃうの……?
不安そうに巫婆の後ろ姿を目で追う子季に、蘭舟は凳子を勧めた。
「大丈夫ですよ。本当に危なかったら置いていかないでしょうから。気を補う薬でも煎じにいったんじゃないですか」
うん、と蘭舟の言葉に頷きつつも、子季は落ち着かない様子で璇の額を撫でる。
「普段はこんなに迂闊な方ではないんですが。あなた様のことを考えながら、ぼーっと歩いていたんでしょう」
璇が危うく死ぬところだったというのに、蘭舟はまったく動じていなさそうだった。
『璇はそんなにしょっちゅう命を狙われているのか』
「さすがにここまででは。ただ、公子は最近、私を宮の警備に当てて、お一人で動くことが多くなっていましたから、それを好機と見たかと」
『そう……』
璇の馬鹿。お前は一回死んだらそれで終わりではないか。危険を軽んじることなく、もっと命を大事にすればいいのに。
「向こうもいよいよ、なりふり構っていられなくなりましたしね。まあ来ると分かっていて隙を作る方も作る方ですよね」
蘭舟の物言いには、主君に対して一切の容赦がなかった。
うん、と気もそぞろに頷きながら、子季は凳子から軽く腰を浮かせ、労わるように璇の頬や額を何度も撫でさする。
蘭舟がふっふっと肩を揺らした。
「意識がないのが可哀相ですね……」
『うん。本当に……』
しみじみと同意する子季に、蘭舟がにやっと笑って言った。
「面白いことを教えてあげましょうか」
『うん。教えて』
すぐに釣られる子季は素直である。
「この方はたとえ太子に冊立されずとも、なろうと思えば王になれるんです」
『えっ。嘘』
随分と不遇を受けていると聞いていたから、俄かには信じ難い話だった。




