28.お前、やっぱりあの時の
子季の体を抱いたまま、璇が黙々と宮に向かって歩く。子季はほとんど地に足をつけることなく、後ずさるようにして宮に連れ戻された。
「謝執事」
璇の一声で心得たように子季の部屋の扉が開く。
「誰も入るな」
璇の背後で心得たように扉が閉まった。
声を荒げる訳でもない。あからさまに不機嫌な顔をしている訳でもない。だが、子季を始め、その場にいる者は誰一人として、彼に逆らおうなどとは夢にも思わない。子季はそのまま寝台まで連れていかれ、否応なく座らされた。璇はそれで配慮のつもりなのか、少し距離を置いて子季の隣に座った。
「責めはせぬ」と璇は静かに言った。
「お前をあんな風に泣かせたのは、きっと私なのだろうから」
泣いていない。この男の前で涙など、一滴も流していなかった。
璇は正面を向いたまま、ぽつりと言った。
「不甲斐ないことで、すまなかった」
何について詫びられているのか、子季にはまったく分からなかった。
「だが、私の留守を見計らい、別れも告げずに出ていこうとするなんて、あんまり情がないではないか」
責めぬと言っておきながら、責めるような口調だった。
『情がないのは……最初から情がなかったのは、お前の方じゃないか』
子季は堪らず言い返していた。
『わたしのことを、好きでも何でもないくせに!』
璇は一瞬、驚いたような顔をして、「お前……」と呟き、それから、朱をこぼしたように赤くなった。
「それが理由か。何故そう思った」
「何故も何も」と、言い募る子季の声は涙に震えていた。
『お前は、わたしの正体を知っていただろう』
「……知っていた」
璇は美しい目を伏せ、渋々認めた。
『ほらな。お前は最初からわたしを利用するつもりで』
「違う」
『見苦しいぞ、袁璇。違うものか!』
「違う――子季、分からないのか」
何をだ。
子季が不機嫌に目をやると、璇は苦しげな表情を浮かべ、じっと子季を見つめていた。
「お前、本当に私に見覚えはないのか」
『……』
竜胆の野を揺らす風が、二人の間で渦を巻いた。
そんなに真剣な表情で、そんなに確信に満ちた言い方で。
そんな風に言われてしまえば、なくはない――毅然として美しい、その眼差しに見覚えが。
「八年前、お前は分け与えてはならぬものを分け与え、子供の命を助けただろう」
子季は呆然と首を振る。
まさか、そんなはずはないという思いと、やっぱりという思い。
一面に咲きこぼれる薄青の竜胆。青の褥に身を横たえる、子季の小さなお客様。
薄青が胸に押し寄せる。息が出来ぬほど。子季が生かした。もぎ取られゆく命を。
――ああ、お前だったのか……。
璇は少し拗ねたように、「命ひとつ与えた相手に、随分と興味が薄いものだ」とぼやいた。
「私は一目で分かったのに」
子季はわっと璇に身を寄せた。
『お前、やっぱりあの時の少女か!』
「少女ではない」
しまった。
失言に気づき、子季は慌てて口を押さえる。
璇は気分を害した様子もなく、懐かしむように目を細めた。
「……食われると思った。何も知らなかったから」
『ひど、いな……』
口元を覆っていた手をゆっくりと持っていかれながら、子季がくしゃっと顔を歪めた。
子季の指に唇を当てた璇が、堪えかねたように肩を震わせたから、子季はからかわれたと知る。
「もう!」と悔しげに指を引き抜いた。
「お前を利用する気など毛頭ない。お前は多分、何かを誤解しているのだと思うが、その状況を作ったのも、恐らく私だと思う」
璇はそう言って、神妙な顔ですいと喉を差し出した。
「お前にもらった命だ。お前が私を信じられぬと言うのなら、吸い取るなり引きはがすなり、気の済むようにすればいい」
『――信じるよ』
子季は両手で璇の頬をそっと挟んだ。
涼やかな目に、泣きそうな子季の顔が映っている。
『無事に、生き永らえていたのだな……』
あの時の子が、こんなに立派になって……。
璇は子季の片方の手の上に自身の手を重ねた。
「気にしていてくれたのか。それは嬉しいな」
『当たり前だろう――あっ』
璇のもう片方の手が、子季の体を引き寄せた。
「嬉しいが、複雑だ……子季、私は少女ではないし、もう子供でもない」
『は、離して』
子季は璇の腕の中でもがいた。いつもなら璇はこんなことはしない。寝台の上で、こんなにきつく子季の体を抱きしめるようなことは。
璇はとろりと甘い声で尋ねた。
「何故。私たちはもう、気持ちが通じ合った仲だろうに」
『き……き……⁉』
「ふうん……そうか、お前、自分では分かっていないのだな。仕方がない。教えてやろう」
『な、なにを』
璇の目が柔らかな弧を描く。
「私がお前を好きではないと思い込み、お前がどうしてあんなに悲しかったのかというと――」
『いっ……要らな……』
教えてもらわなくても分かる――。
「お前が私を好きだからだ」
『分かってる、そんなこと!』
子季は掠れた声を張り上げ、息を弾ませた。
璇はきょとんと目を丸くして、「――そうか、分かっているのか」と呟いた。
真っ赤になっている子季の耳を、あやすように唇で食む。
子季は璇を突き飛ばし、さっと距離を取った。
「子季……」
『そんな顔をしても駄目だ。わ、わたしには夫が』
「まだ破談になっていないのか」
璇の機嫌が目に見えて悪くなった。
あれこれ取り繕うのも面倒になり、子季はため息をひとつついて、ありのままを告げた。
『ご辞退する旨申し入れているが、先方からお返事があるまでは、やはり……』
「子季、私の為に辞退してくれたのか」
『勘違いするな。お前の言うことも尤もだと思ったからだ』
色々と言っていたな? 耐えられる男はいないだの何だのと――と、子季が軽く睨んでみせると、さすがにばつの悪そうな顔をする。
距離を詰めようとする璇を警戒しながら、子季はぼそぼそと告げた。
『そ、それに、たとえ破談になったとしても、お前と添い遂げることは、やっぱりできない……』
「何故だ。理由を言ってみろ」
理由?
そんなもの、明らかではないか。当然と思っていることを改めて問われ、子季はたじろいだ。
『そ、それが自然の理だからだ。わたしたちはお前たちの領域をみだりに侵してはならぬ。誰に言われるまでもなく、それは当然のことなんだ』
「そうか。成程……」
拙い説明だったが、璇は得心が行ったようだった。
「そういうことか。越境する力を持つ側の者が、その力の行使に慎重でなければ、人の世は容易に混沌と化す。お前たちはそうやって、人間を守ってくれているのだな。私たちはお前たちと違って弱く、何の力も持たぬから」
人間の公子は居住まいを正し、涼やかに頭を垂れた。
「今更ではあるが、礼を言う」
『礼を言われるようなことではない。当たり前のことだと言っているだろう』
「だが、子季」
無論、璇がここで引き下がるはずもなかった。
「お前の言う理とは、互いに思い合う者同士を引き裂いてまで、守らねばならぬものなのか。そうではないから、人と瑞獣が添うた例があるのではないか」
『お前はもう。すぐそうやって』
「誰に言われるまでもなく、と言うからには、明文化された規則ではないのだろう。思うに、両者が互いに良い時を過ごせるならば、越境は禁じられていないのではないか――誰に言われるまでもなく」
現に、璇は知っている。太卜令とは数年来の知己である、とある幽界の住人のことを。
ハァ……と子季がため息をついた。
「頼む、子季」
万策尽きて、璇がぽつりと言った。
「私はお前でなければ駄目だ」
子季は再び耳まで赤くして、璇から顔を背けた。
金の眼だけがちら、と璇の方を向く。
璇は大人しく子季の返事を待っていた。
むず痒くなるような沈黙の後――。
『破談になったからと言って、即、お前に嫁ぐという訳にもいかぬ……』
「承知している。お前の気持ちと体面には、最大限の配慮をしよう」
遥かな高みにいる存在が、おずおずと地上に降り立とうとする気配を察し、璇は優しく請け合った。この地に触れる彼女の前足を最初に受け止めるのは、荊の渦巻く硬い地面ではなく、璇が敷き詰めた極上の毛氈でなくてはならない。
子季は遂にこう言った。
『……破談の連絡は、ここでお前と一緒に待つ』
璇が破顔し、子季は彼が広げた腕の中にふわりと舞い降りた。
「そうしてくれるか、子季」
璇の腕は緩く置かれているだけだったから、離れようと思えばいつでも離れられる。
だから、離れぬのは子季の意思だった。
はぁ……と長い息を吐いて、璇が子季に体重を預けてきた。
『ちょっと、重い……』
璇を押しのけようとして、子季が胡服の腕に触れる。
おや、どこかで引っかけたのだろうか。腕のところに裂け目が出来ている。
『璇……?』
細い隙間から覗く、一筋の赤い切り傷。微かに残る独特の臭気。
子季の血の気が一瞬で引いた。
『巫婆! 巫婆!』
子季が声を張り上げると、皆で待機していたのか、巫婆を筆頭に宮の使用人たちがわっとなだれ込んできた。
「娘子、無事かッ」
『蟾蜍の毒だ!』
説明する時間も惜しく、子季はそう言いながら璇を褥に押し倒した。上から覆いかぶさり、口移しに呼気を送り始める。
ああ、どうか。死なないで。
璇の意識は既になかった。
それは呼吸を奪う猛毒だった。




