26.この夢が真ならば(後)
就寝前だからだろうか、璇は射干玉の髪をほどいていた。そうしているといつもより一層、中性的に見える。白い寝衣の上に濃い青の袍を肩掛けに羽織った璇は、寝台の縁にぼんやりと腰掛け、杯を傾けていた。驚いたことに、まだ飲み足りなかったらしい。
もしや耐性でもあって、薬の効きも悪いのだろうか。
その可能性を失念していた。
幼い頃からあらゆる手段で命を狙われてきた璇は、絶えず毒に晒され、あるいは毒に自らを慣らし、色々と耐性をつけているのかもしれない。
そのことに思い至ってしまえばつい、憎むべきこの男を憎みきれぬと思ってしまう。璇が動きやすい胡服を好んで着る理由を、子季ももう薄々察している。
「こちらへ」
璇が杯を置き、嬉しそうに子季を促す。
閨に呼ばれた娘のようになった。
「今日は夢の中にも来てくれたのか」
璇の目はとろりと眠たげで、子季を走って追いかけることも、大声で人を呼ぶことも出来そうにない。
子季は促されるまま、璇の前に立った。
「どうした……? 何かあったのか」
子季の庇護者のような顔をして、そう尋ねる璇を、子季は褥の上に柔らかく押し倒した。
「子季……」
上から覆いかぶさるようにして、璇の顔の横に手をつく。
『お前はわたしの正体を知っているのか』
璇はうっとりと目を細めた。
「知っている……」
何を嬉しそうに。ぬけぬけと。
『――聞け。袁璇』
子季は金の眼をきらめかせ、妖しく囁いた。
『お前が王となるのを助けてやろう』
璇が怪訝そうに眉を寄せる。
何故? と言いたげなその反応は、子季が思っていたものとは違う。子季は内心戸惑うが、無論それを表に出すことはない。
『生涯にたった一度だけ、わたしの名を呼ぶがいい。わたしはお前の隣に立ち、お前が王だと示してやろう。お前が望むなら、お前に仇なす者の喉を食い破ってやろう』
こんなことをしてしまうから、わたしは甘いと言われるんだろう。皆からいつも叱られるんだろう。
璇がとろりと子季を見上げている。
『だが、袁璇――』
子季はほんの少しだけ、璇に顔を近づけた。
『お前との縁はそこまでだ。それ以降、二度とわたしの名を呼ぶことは許さない。もし呼んだら――お前の喉を食い破ってやる』
その唇で、子季と。
二度と呼ばせぬ。
「子季、泣いているのか」
泣いていない。この男の前で涙など、絶対に流すものかと決めている。
「泣くな。私はここにいるから……」
泣いているなどと子季は一言も言っていないのに、璇は重そうに腕を持ち上げ、子季の背に回した。
よしよし、と子季の背を撫ぜ、流れてもいない涙を拭う。
「悪かった……。もう二度と、お前に怖い思いはさせぬ」
うん、と危うく頷きそうになった。
――あ。
そのまま体が引き寄せられ、唇が重ねられた。
普段の璇なら絶対にこんなことはしないから、油断していたと言うしかない。
羞恥と怒りに体が震えたが、子季は大人しく彼を受け入れた。璇は顔に似合わず、野の獣のように鋭いところがある。下手に拒絶して現実だと気づかれるより、このまま夢だと思わせておく方がいい。
大嫌いな男の舌は、甘く涼やかな梨酒の味がした。
「ああ、子季……。この夢が真ならば、どんなにか……」
眠りに引き込まれるように、うっとりと唇を離した璇が呟いた。
大したものだ。自分自身に暗示をかけて、子季のことを好きだと思い込ませている。
心地よく寝息を立てる璇に背を向け、子季は逃げるように部屋を飛び出した。碌に前も見ず廊下を走り、最初の角を曲がったところで巫婆にぶつかりそうになる。
「何じゃ。おらぬと思ったら、こんなところにおったのか」
『どうして――』
こんな時間だというのに、巫婆は子季を探していたようだった。
「何をそんなに泣いておる」
璇の部屋を出た瞬間から、涙は瀑布のごとく流れ落ちていた。
「……付き合え」
巫婆はそれ以上何も尋ねず、腰に下げた瓢箪を指した。
子季は唇をごしごしと拭って頷く。命の恩人からの酒の誘いを断るほど、礼儀知らずではなかった。
後味の悪い酒を飲んだばかりである。飲み直すのも悪くなかった。
『え? ここで?』
巫婆は勝手知ったる様子で、よりにもよって璇の主室の真隣の部屋へすたすたと入っていった。ここが巫婆の部屋なのだろうか。
璇の主室の東隣にある、彼の寝室とは場所といい、同じ紋様の隔扇(間仕切り板)といい、対になっていることは明白で、ここが宮の女主人の部屋であることは一目瞭然だった。
なかなか巫婆のお眼鏡に適う仕上がりにならないのか、中は未だ設えの途中といった様子で、とろりと甘やかな色味の、上質な黄花梨の寝台は、美しい帳と寝具が備え付けられるのを今か今かと待っている。それ以外の調度にしても、未だ数こそ少ないものの、璇が自ら丁寧に選んだものだということが、璇の部屋を見た後だからこそよく分かった。
巫婆は大切にされているのだな……。
居心地のよさそうな牀榻(寝椅子)に二人で上がり、据えられた台に酒と肴を乗せて、無言でちびちびとやり始める。
ここで人が暮らしているという感じが一切しないが、巫婆は普段、どこで寝泊まりしているのだろう。
『あんまり自分の部屋に帰らないの?』
「そうじゃな、薬草園の端にある小屋で年中過ごす」
やっぱりそうか、と子季が笑った。巫婆ってそういう感じなんだ。なんか分かる気がする。
「果実酒の甕も近いしの」
『じゃあそっちで飲もうよ』
「たまにはここもいいじゃろう」
ふうん、と早くも酔いが回ってきた子季が適当に相槌を打った。
『璇の話はしないで』
ぽつりと言うと、「せぬ」と巫婆はあっさり請け合って、「何をすればそんなに嫌われることが出来るのじゃ……」と小声で独り言ちた。
他愛のない話をしつつ、静かに杯を重ねているうち、子季はいつの間にか眠ってしまった。




