25.この夢が真ならば(前)
はらはらと金の涙をまき散らしながら、子季が尻尾を巻いて逃げ戻ったのは、子季をずっと騙していたらしい男が万事整えてくれた、柔らかく暖かい褥の上だった。
――子季は帰さぬ。絶対に手放すものか。
いくら子季とて、その意味が分からぬほど世間知らずではなかった。璇が欲していたのは最初からずっと瑞獣で、子季ではなかったということだ。
璇、どうして……。
手助けしてほしい、と一言言ってくれれば、子季は喜んで助けたのに。彼は子季を好きなふりなどする必要はなかったのに。
――兄上、惚れているふりが本当にお上手だ。
今更ながら、権の言葉を噛みしめる。
ああ……。皆、知っていたのだな……。
瑞獣を遇する為に用意された、極上の褥の上で、子季は時を忘れてさめざめと泣き続けた。
「――娘子、お目覚めでしょうか。公子がお見えです」
紗の向こうから、普段と何ら変わることのない、淡々とした怡若の声がした。
いつの間にか夜が明けていた。
「子季、調子は――」
『来るな!』
部屋に入ろうとしていた璇が、驚いたように足を止めた。
紗の向こうで立ち尽くす璇から目を逸らし、子季は「お願い、来ないで」と懇願する。
璇の休暇とやらが終わってからは、璇が子季の部屋を朝から訪れることは、久しくなくなっていた。子季の顔を見てしまったら、出ていきたくなくなってしまうから、と。
今思えば、あれも彼の手管だったか。
「公子、あのようなことがあったばかりでございます。今日のところは」
怡若が有無を言わさぬ圧をかけ、璇を部屋の外へ押し出した。
二人が部屋の外で二言三言、何か喋っている間、「失礼します」と紗を開けた芸欣が、子季の顔を見て目を丸くした。
「娘子、お目を冷やしましょう」
子季を優しく横たわらせ、芸欣は盥の中で泳がせた布を、軽く絞って子季の目元に当てた。
子季はされるがままだった。
やがて戻ってきた怡若が、「お食事を」と言うのには首を振った。
「公子と何かあったか」
巫婆の言葉には返事もしなかった。
ぼんやりと横たわっているうち、巫婆と怡若はいつの間にかいなくなっていた。
「放っておけ。芸欣を付けておけば問題なかろう」と、巫婆がさっさと出ていったことも、怡若が「頼んだわよ」と芸欣に目配せして、心配そうな顔をしつつも、巫婆について出ていったことも知らなかった。
芸欣は温くなった布を剥がして盥にくぐらせ、先程と同じくらいの力加減で絞って子季の目元に当てた。
「気持ちいいですか」
子季の返事がなくても、気にした風もない。その態度が気楽で、子季はすうっと目を細めた。
やがて、芸欣もまた、「水を替えてきますね」と出ていった。
その隙をついた、という訳でもなかったが。
帰ろう――。
子季は褥に落ちる布も気にせず、ふらふらと起き上がって扉に向かった。
そうだ。山に帰るのだ……。
「娘子、どうされました?」
扉を開けると蘭舟がいて、にっこりと子季に笑いかけた。
『何故ここに……』
「娘子の護衛を仰せつかりました。公子のお帰りまでは、私がここに詰めております」
『そう……』
何のことはない。見張りであろう。
腹心の蘭舟を詰めさせているということが、子季を決して逃がさぬという璇の強い意志を物語っている。
子季はしょんぼりと俯いた。
心も体も腑抜けの今、この男を振り切れる気がしなかった。
「お散歩でしたらお供しますが」
『いい……』
子季はすごすごと部屋に戻った。
蘭舟がいる間はかえって難しい。帰るのは夜になってからにしよう……。
寝台に戻る気力もなく、途中にある卓について一休みしていると、
「あら、娘子。丁度良かったです」
しばらくして戻ってきた芸欣は、盥ではなく温かい汁物を盆に乗せていた。
「さ、娘子」
子季は大人しく芸欣の差し出す匙に口を開いた。
薬や重湯らしきものの匙を差し出されると、もはや条件反射で口が勝手に開く。
しばらく無心でそうしていると、温かい汁物にほぐされたのか、舌が自然と回り出した。
『……心配をかけてすまなかった』
「あんなことがあった直後ですもの。無理はありません」
芸欣は多分に同情的な様子だった。
『芸欣に折り入ってお願いが』
「何なりと」
『眠り薬が欲しいんだけど』
「はあ」
体が温まったせいか、子季はとろりと眠たげな目をしている。
怪訝そうな顔をする芸欣に、子季はすかさず顔をしかめ、
『でも、苦いのは嫌なんだ……。水か何かに混ぜて飲めるよう、味も匂いもしないものってあるかな』
「ありますよ。すぐにご用意いたします」
芸欣はにっこりと請け合った。多少の違和感を覚えたものの、子季の望みはすべて叶えるよう言い付かっている。
『ありがとう。言いにくいんだけど、巫婆には内緒にしてくれない』
「心得ております」
眠り薬と水をもらい、子季はすやすやと眠りについた。
目が覚めれば夕刻である。
鏡台の前に座った子季の髪を梳かしながら、芸欣が言いにくそうに切り出した。
「あの、そろそろ公子がお戻りになりますが」
子季は鏡越しに芸欣と目を合わせ、悲しそうに微笑んだ。
『朝、冷たくしちゃったから嫌われたかな』
「そんなはずがないでしょう」
子季のやや切れ上がった美しい目が、鏡の中でゆっくりと弧を描く。
『朝のお詫びにもてなしたいな。御馳走と梨酒を用意して待っていたら、璇はわたしの部屋に来てくれるだろうか』
「勿論ですとも」
子季の部屋に料理と酒が運び込まれ、その旨は帰宅した璇にも速やかに伝えられた。
「……子季、調子はどうだ」
入っていい、とは言われたものの、璇は恐る恐る入ってきた。
梨酒に細工を済ませた子季が、振り返って嫋やかに微笑んだ。
『もうすっかり。さ、座って』
緩く結い上げた髪、化粧っ気のない顔。ゆったりと体に巻いた裾の円い衣。普段と何ら変わらぬ装いながら、まるで人を誑かす妖狐の類が本気を出したかのように、今宵の子季はただならぬ色香を漂わせている。
璇が素直に卓につくと、子季は彼に娶られる予定の娘のように、仲睦まじく隣り合って座った。
碧玉のごとき青磁の水差しから、揃いの碧杯に梨酒を注ぐ。
『さ、璇……』
「子季? お前、飲んでいるのか……?」
ううん、と子季は首を振り、残念そうに言った。
『心を落ち着かせる薬をもらっているから。あれはお酒と併用してはいけないんだって』
「そうか」
子季ににこにこと促されるまま、璇は杯をあおった。
その薬は飲まなかったと聞いているが、思い直して飲んだのだろうか――。
璇の喉が上下して、確かに酒が胃の腑に送られるのを、金の眼がじっと見ていた。
「どうかしたか」
『ううん何も』
狐娘は優しく目を細め、あからさまな視線を隠した。
「そうか」と、特に訝しむこともなく、璇が子季の好物を取り分け始める。彼の肘が思いの外近くにあって、子季はどきりとした。
普段からよく一緒にいる相手だったが、こんなに距離を詰めて座ったのは、思えばこれが初めてだった。
璇の所作はいちいち美しかった。
艶やかな射干玉の髪も、憎らしいほど涼やかな横顔も、上品に箸を持つ手も、よく見れば本当にこの男は美しかった。
子季は何度も杯を勧めた。
泣き腫らした目の縁も赤い子季が、やけに妖艶な笑みを浮かべ、「璇、もっと」とやるものだから、璇は早々に立ち上がった。
「不安定な気がする。ゆっくり休め」
『そう? じゃあ最後に一杯だけ……』
最後の杯をくいと飲み干し、璇が出ていった。
かなり酒に強いようだ。子季といる時はあまり飲まないから気づかなかった。
眠り薬も入れておいてよかった……と子季は密かに胸を撫で下ろした。
『疲れたから、わたしももう休もうかな』
そう言って侍女たちを下がらせ、子季は頃合いになるのを待った。
璇がうとうととまどろんでいても、ぐっすり熟睡していても、それはどちらでもよかった。
璇が動けぬことを確認し、彼の耳元で別れの言葉を囁くだけから。
「子季……?」
子季が大きな格子扉の中に、そろりと吸い込まれていった時、璇はまだ起きていた。




