24.失恋
――お前に、私の部屋の位置を伝えておく。
璇に手を取られて向かった先は、永逸宮の主の部屋だった。
子季の体を気遣って歩きながら、璇は悔やむように言った。
――お前をすぐに治療できるよう、入り口付近に部屋を用意したのだが。こんなことになるなら、早々に奥へ移しておけばよかった。
そんなの、と子季は首を振った。今日のようなことが起こるなんて、誰にも予想できなかっただろう。それに、子季は塒がころころ変わるのは落ち着かない質である。
――このままでいい。
――だが、私の部屋からも遠いし。
璇は不満たらたらであった。夜に遊びにくる時に、いちいち不便だということだろうか。
遠いような、そうでもないような、微妙な距離を歩いた後、璇は大きな格子扉の前で「ここだ」と告げた。
璇の部屋は主の好みを反映してか、華美ではないが、すっきりとしていて上品だった。たくさんの書物が整然と棚に並べられ、よく手入れされた弓や剣が、機能美の極みのような台に掛けられている。正面の卓の上には、子季の部屋にも置かれている鹿の置物があった。対になっているものだろう。
璇は透かしの月洞門の間仕切りの奥、紫檀の寝台の前まで躊躇なく子季を導いた。
――今後、何かあればここへ逃げ込むといい。いくら権でも私の部屋にずかずかと押し入ることはせぬ。何なら今日からここに住むか?
――いい。
子季がにべもなく断ったのが、昼間のことである。
――公子、お帰りなさいませ……。
璇を出迎える謝執事の控えめな声を、子季の耳がぴくぴくと拾ったのは、真夜中をとうに過ぎた時刻のことだった。
今日は随分遅かったな……。昼間こっちに来てくれたせいだろうか。
待っている時に限ってこうである。
以前もこんな風に帰りが遅くなったことがあったが、その時、璇は礼節をもって、子季の部屋を訪れるのを控えた。求婚以来、璇はそういうことに気を遣う。今日も恐らく、礼節をもって控えるだろう。子季の方では一刻も早く会いたい事情があったから、そんなものはかなぐり捨てて、柔らかい褥を抜け出した。
夜の静寂を縫って、透き通るような虫の声がする。
人間の足に、可愛い刺繍が施された沓を履き、子季はいかにも狐の娘らしく、そろりそろりと廊下を歩いた。
――醜いな。
あの声を、どこかで聞いたことがあると思った。
どこだったっけ。確かにどこかで……。
明らかに苦そうな薬の椀を手に持った巫婆が、よっこいしょと子季の前に座った時も、子季の頭の中はそのことでいっぱいだった。
――心を落ち着かせる薬じゃ。飲んでおきなされ。
――いい。
突き出される匙を無心でひょいひょいと躱していた時、それがどこだったか唐突に思い出した。
――ハハハ! 妖狐め。思い知れ。
あの野原で、火矢を射かけてきた人間の声だった。
どうして今まで思い出せなかったのだろう……。
――じ、娘子、どうなさいました。
――落ち着け、嫌なら無理に飲めとは言わん。
子季は鬼の形相を浮かべ、無言で紗の奥にするすると引っ込んだ。
あの夜の襲撃者が権ならば、彼の者をどうしてくれようか。だが、その前に璇だった。彼と話をしなくてはならない。
考えてみれば妙だった。
璇は一度も、あの夜のことを子季に尋ねたことはない。
もし彼が本当に何も知らなかったなら、「あの夜、何があった」「襲撃者の顔は見たか」と子季を質問攻めにしそうなものだ。
そうしないのは、彼が最初からあの野原にいて、権が火矢を射かけるところも、子季が風を呼ぶところも、すべて見ていたからではないか。
子季は顔を強張らせ、大きな格子扉の前に立った。
「――私の落ち度だ」
入っていいか、と子季が尋ねようとした時、扉の向こうからぐったりと疲れた璇の声がした。
扉一枚を隔てた部屋の中では、密かに呼び寄せた蘭舟と謝執事を前に、璇が力無くうなだれていた。
「権の性格と常識の無さを、まったく考慮に入れていなかった」
「いや、あれは無理でしょう」
璇は無言で首を振る。権のことをそれなりに知っている自分が、この事態を予測出来なかったということに、言い知れぬ無力感を覚えていた。
「本当に腹の立つ……」
璇がいくら永逸宮の警備を強化しようと、茱国第二公子という身分ある者が正面入り口から堂々と入ってきた場合、これを阻止する術はない。
「別途対策が必要だ。それも早急に」
「もう来ないんじゃないですか。幸い、と言っては何ですが、娘子のことはお気に召さなかったようですし」
蘭舟の方が主の数倍、冷静だった。
そうだな、と璇は複雑な表情で頷いた。
「子季に怖い思いをさせた。後のことは巫婆に任せておいたが、子季は今、どんな様子だろうか」
「それほど気にしておらぬようでございます。巫婆が言うには『随分身のこなしが軽くなっておる。もし次があらば、返り討ちに遭うのは権公子の方であろう』と」
「そうか」
よく分からない。後で怡若に詳細を聞かなくては。
「子季が気にしていないならよいが……。私は子季に愛想を尽かされただろうな」
子季を危険に晒した上、激情に駆られて我を忘れた。子季はさぞかし呆れていたことだろう。
「こんなことで、あなたに愛想を尽かすような方には見えなかったですけどね」
蘭舟はにやにや笑っている。
「寧ろ……」
「友として好かれているのは知っている」
璇は蘭舟を不機嫌に遮った。
求婚は既に断られたも同然の状態で、「『友として好き』では駄目なのか」と悲しげに尋ねられる夢なら昨夜も見たばかり。子季は璇が部屋に行けば、いつだって歓迎してくれる。芸欣と一緒に作ったという、素朴な菓子を璇の口に運んでくれる。「明日は来れぬやも」と言えば、「そんな」という顔をする。好かれてはいるのだ。だが、そこには璇と同じだけの熱がない。
「ふーん、友として、ですか」
そうだ、と璇は苦々しげに頷き、
「ひとまずそこに付け込んで、少しでも長く引き留めるしかない」
何を言っているのだろうと自分でも思った。
「……卑怯は承知だ」
今一番大事なことは、子季を幽界に帰さぬことだった。あちらから迎えの者が来たかもしれぬ、と太卜令に告げられた時はさすがに肝が冷えたが、子季は「返事をするまでは黙って出ていかない」という約束を律儀に守っているようだ。騙し騙し、子季をこのまま滞在させ、「気の置けない友のような夫婦の方が、結局はうまくやっていけるそうだ」などとまことしやかに囁けば、素直な子季は「そうなんだ。じゃあ、わたしは璇がいいな」と言ってくれそうな気がしないでもない。それくらいには好かれている。恐らく。
「もう何もおっしゃいますな……! 永逸宮の者皆、全力で公子をお支えいたします。どうか娘子のお心を勝ち取ってくださいませ」
謝執事が拱手し、深々と頭を垂れた。
「公子のお言葉を疑っていた訳ではございませんが、このところの瑞兆の数々、真に娘子は瑞獣であらせられること、疑いもございません」
「声が大きい」
人払いをしてあるから、誰かに聞かれることもないだろうが、子季の正体は一応ここだけの秘密である。宮中においては、もはや公然の秘密ではあるが。
璇は憂わしげなため息をつき、自身に言い聞かせるように言った。
「……子季は帰さぬ。絶対に手放すものか」




