23.成長
権の姿が完全に見えなくなってしまうと、璇は蘭舟に「見るな」と命じ、ようやく子季を外套から出した。
「弟がすまない」と言いながら、さっと子季の襟元を直す。
「子季、あいつに何をされ――」
『聞きしに勝る乱暴者だな』
屈辱に身を震わせながら、子季は吐き捨てた。
文句を言う相手が違うのは分かっているが、このままでは気持ちが治まらない。
何をしても許される、と権を極限まで思い上がらせているもの――父王からの寵愛、現王后の後ろ盾、そして機を見るに敏な宮廷人たちからの支持。中でも諸悪の根源は、父王からの寵愛だろう。平民出の母后の後ろ盾などそれだけでは霞も同然、背後に見える父王の威光なくして、宮廷人たちからの支持もない。
『父たる王は何故、あのような者を寵愛しているのか』
璇は少し言いよどんだ。
「父は……権の勇猛を愛しているのだ」
『お前まで何を言っている。勇猛と粗暴は別のものだろう』
璇がぐっと言葉に詰まり、蘭舟がくっくっと肩を震わせた。
「公子、その言い方では伝わらぬでしょう」
「……有り体に言えば、権は見た目も気性も、父上にそっくりなのだ」
『なんて下らない!』
蘭舟が腹を抱えて笑い出したが、子季は笑うどころではなかった。
亡き妻に似た長男と、自身にそっくりな次男がいて、父王は単に自分に似ている方を猫可愛がりしているだけだなんて。
子季が一気に脱力すると、「それで」と、璇が急に真顔になった。
「そんなことより、あいつに何をされた」
『え? 別に何も』
「いいから。何があったか最初から全部、余さず話せ」
何もされていない、と言っているのに承知せず、璇は仔細を聞きたがった。
『ええと、寝台の上で丸くなろうとしていたら、あいつが来て』
璇が外で頑張っている間、昼寝しようとしていたことがばれてしまった。どうしよう。まあいい。
『それで、上に乗られて、醜いって言われて、衣を広げられて、体も醜いって言われて、それから、えーと、声も醜いのか、って』
「斬ってやればよかったな」
璇は冷たい月のように笑った。
「それで?」
『呉侍衛が来てくれたから、それで終わり』
「そうか」
あ、と子季は璇の背からひょいと顔を出し、蘭舟に目を向けた。
『呉侍衛、ありがとう』
「娘子、勿体ないお言葉です」
蘭舟は大人の男の余裕たっぷりに微笑んだ。
「私のことは、どうか蘭舟と」
『分かった』
子季もにっこりと笑みを返す。
「子季、蘭舟は後腐れのない綺麗な年増が好みだから、青臭い小娘は相手にせぬぞ」
「ちょ、公子。何で今それ」
『ふうん? そう』
あまりにもどうでもいいことを言われ、子季は軽く聞き流した。そんなものは蘭舟の勝手だろうに、璇は一体、何をいちいち。
それより、と子季は璇に向き直り、「璇も」と腕をつかんで耳元に顔を近づけた。
吐息で喋っていた頃からの癖である。
『来てくれてありがとう』
「いいんだ」
璇は再び、子季を腕の中に緩く閉じ込めた。
「子季……」
『うん?』
子季が目を上げると、璇は見慣れぬ獣にそっと手を差し出すような、不自然に優しい笑みを浮かべていた。
「いいか。お前はちっとも醜くない。あいつの目がおかしいのだ」
『おかしいのはお前の誤魔化し方だ。わたしの傷痕のことになると、お前は時々、腫れ物に触るような感じになるな』
わざわざ巫婆を通して、面はどうする、とか訊いてきたりして。
あの時は「随分と細やかな気遣いをしてくれるものだ」と少しくすぐったかったけれど――。
子季は拗ねるように顔を背けた。
『わたしのことを誰より醜いと思っているのは、本当はお前なんだろう』
「違う!」
璇は即座に否定した。
その後は急にしどろもどろになって、
「違う、子季。私は……その、お前が気に病んでいるかもしれぬと思って……」
『わたしが?』
「そうだ。女は殊の外、己の美醜を気にするものだろう」
美貌の公子はそう言って、憂わしげにため息をついた。
「私にとって、お前はまったく醜くないが、お前が自分を醜いと思い込み、死を選ぶようなことがあってはならぬと思い――」
『死を選ぶ? そんな理由でか』
「お前は割と気軽に命を粗末にするだろう」
子季はひゅっと息をのんだ。
なに。この言い方は。
まるでこれまでの子季の所業を、すべて知っているかのような。
『そ、粗末になんか』
この世に生まれ出でて十有八年、確かに子季は既に命を二つ失っているが、どちらの場合も真にやむを得ない事情があったのだ。
『……しない』
子季は掠れた声を震わせ、きっぱりとそう言い切った。
少し潤んだ金の眼が、まっすぐに璇を見上げている。
『わたしは何があっても、この命を大切に生きると決めているんだ』
子季の言葉が意外だったのか、璇が軽く目を瞬く。
うん、と泣きそうな顔で子季は頷いた。
だって、お前が助けてくれた命なのだから――。
命は脆くて儚くて、消え去る時は一瞬で。
でも、やっと分かった。確かな鼓動を刻む命の、なんという強さ、愛おしさ。
お前が教えてくれたんだ……。
璇は警戒するように尋ねた。
「どういう心境の変化だ……?」
『変化も何も』
子季はふっと笑って言ってやった。
『命とは、ひとつひとつがかけがえのない、尊いものだろう』
「子季……!」
璇は感極まった様子で子季の頭を撫でた。
「お前がそんな風に思ってくれるようになったとは……!」
璇は声を詰まらせている。
璇って時々、本当に大袈裟、と思いながら、子季はうっとりと璇に撫でられた。
「――待て。誤魔化されぬぞ。私が剣を抜くと分かって、お前は私の前に飛び出しただろう」
『あ、それは』
全幅の信頼を湛えた金の眼が、上目遣いに璇を見た。
『お前はわたしを斬らぬと思った』
「――そうか」
璇は途端に可愛い表情になって、とろりと子季を引き寄せた。
「公子、お邪魔でしょうから、私は外に出てますね」
「うん……」
明らかに聞いていないと分かる生返事をして、璇は子季の頭に頬をすり寄せ、恐ろしいほど機嫌のよい声で、「湯浴みしたのか」などと囁いている。
子季は璇の体をぐいと押した。
『お前は戻らなくていいのか』
「戻る……」
璇は不承不承そう答えた。
きっと色々なものを放り出して、駆けつけてくれたのだろう。
そんな相手に対し、なかなかに恩知らずな態度だと自分でも思うが、璇には身分に伴う責務があった。子季のせいで、それがおざなりになってはいけない。
璇は大きく息をつき、今にも部屋を出ていこうとしていた蘭舟に呼びかけた。
「蘭舟、お前は残って周囲を警戒せよ。権の襲来は誰にとっても予想外だっただろうから、自棄になった『白粉』が暴挙に出ぬとも限らぬ」
「承知しました」
蘭舟は拱手して出ていった。「白粉」というのは王后を指す隠語であろう。本人に会ったことがなくても何となく分かった。閉じた扉の向こうから、「あ、洪巫婆」「馬鹿公子が来たらしいの」というやり取りが聞こえてくる。
『璇、わたしは大丈夫だから、お前もお前の務めを果たしてこい』
口調はともかく、子季はしおらしくそう言った。
「分かった」と璇は頷き、名残惜しげに子季をもう一度引き寄せる。
体を離した璇は、そのまま出ていくのかと思いきや、ひょいと子季の手を取った。
「戻る前に――子季」




