22.狼藉(後)
いつの間に現れたのか、立ち姿に一分の隙もない、精悍な男がひたと権を見据えている。
「呉蘭舟か」
「そのお方は主の大切な客人です。一刻も早く離れてください」
「相変わらず不遜な男だ。母上がお前を私の侍衛に取り立ててやろうとしているらしいが、その態度ではまあ無理だな」
男は答えず、うっすらと笑った。
権のこめかみに青筋が走る。
――呉蘭舟……彼が。
直接会ったことはなかったが、その名は子季も聞き及んでいた。
甲冑が恐ろしく似合うという華やかな偉丈夫で、こんなご時世だというのに、権公子派からの誘いに一切靡かず、璇の侍衛をずっと務めているという変わり者。
芸欣が言うには、吃驚するほどお強い方、だ。
「聞こえませんでしたか? 離れてくださいと言ってるんですが」
「嫌だと言ったら?」
「斬ります」
蘭舟の答えには微塵の躊躇もなかった。
権が子季の上で噴き出した。
「この私を手にかけるだと? そんなことをして、無事に済むとでも思っているのか」
「どうでしょうね。私は首から上を失うだけで済みますが、あなた様は事の顛末を理由も込みで、史書に書き記されることになりますね」
権が凄まじい目で蘭舟を睨んだ。
――一公子ノ女客ヲ凌セント欲シ、侍衛之ヲ斬ル。
彼の身分で、そのような死に様であったが最後。
実に素っ気ない、だが十二分に状況を説明した一文が史書に書き加えられ、未来永劫、記録として残るのだ。
しん、と室内が静まり返る。
いつまでも続くかと思われた剣呑な沈黙は、勢いよく扉が開く音によって打ち破られた。
「子季!」
『璇!』
聞き間違いようのない、あの涼やかな声がして、子季は夢中で彼の名を呼び返す。
扉を蹴破るように入ってきた璇は、荒い息をしながら猛然と駆け寄ってきた。仕立ての良い外套を翻し、中に着ているのはいつもの胡服で、ああ本当に璇だ、と思う。帯刀している、と子季が気づいた時にはもう、璇の手は柄に伸びていた。璇の目に一切の迷いはない。
いけない――。
子季は目にも留まらぬ速さで権の下から這い出し、璇の前に身を投げ出した。
斬り捨てられても文句は言えぬ所業である。
璇は音を立てて柄を押し戻し、剣から大きく手を離した。
『――ならぬ』
一瞬、行き場を失った手は、すぐさま子季の背を抱き寄せた。
ならぬ、と子季は繰り返した。
馬鹿者。お前は弟殺しの罪を背負って、一生を獄で過ごす気か。
子季は早鐘のような心臓の音を聞きながら、璇の動きを封じるように、きつくしがみついていた。
ああ、璇がここにいる……。
子季は胡服の胸に頬をすり寄せ、妙にしみじみと呟いた。
『お前は、いつも胡服なのだな……』
「すぐに動ける服でなくては意味がないだろう」
璇らしい言いぶりに、ふっと笑みが漏れた。
彼の声を聞いているだけで心が落ち着いた。
「……遅くなって、すまない」
『平気。別に何もされていないし』
「何もと言うことはないだろう」
体をきつく押し当てていても、大きく暴かれた胸元は隠しようがない。
璇は凍りつくような眼差しを異母弟に向けた。
「私の住まいに押し入るとは。礼儀知らずも甚だしい」
「何を大袈裟な。ちょっと気が向いたから、兄上の宮に遊びにきただけだろう」
権は子季の寝台に傲然と腰掛け、無邪気を装い笑っている。
成程、権は徒党も組まずたった一人、武器も持たずにやってきている。この状況で彼がそう言えば、それで通ってしまうのだろう。
兄と弟は無言で睨み合った。
「――恐れ入ります。晩翠宮の侍女長が参上しております。王后の命で、権公子をお迎えにあがった、と」
部屋の外から、少し息を切らした怡若の声がした。
晩翠宮が即座に動いたのは、もしかしなくても怡若と芸欣が、「権公子が璇公子の客人のお部屋に押し入ったようでございます! あ~れ~、だ~れ~か~、お~た~す~け~!」と声の限りに叫びながら、晩翠宮の周りをぐるぐる駆け回ったからであろう。
「チッ……興が醒めた」
権が吐き捨て、気だるげに立ち上がった。
近づいてくる権の目から隠すように、璇が外套の中にすっと子季をくるむ。
権は璇のすぐそばで立ち止まった。
「兄上……惚れているふりが本当にお上手だ」
璇が美しい眉をひそめる。
権はクッと笑って言った。
「その顔に落ちぬ女はおらぬ」
「――権」
権は立ち去りざま、吐き捨てた。
「そうまでして王位が欲しいか」
外套の中にいる子季の耳を覆うように、璇が子季の頭を引き寄せた。
「……捨て置け。妄言だ」
冷たい声で釘を刺されずとも、権が何を言っているのか、子季には一切理解出来なかった。




