21.狼藉(前)
ニ、三日、というあまりに短い期限はあっという間にやってきて、あっという間に過ぎ去ったが、子季は未だ、永逸宮に留まっていた。
半分は子季自身に原因がある。
子季が今にも死にそうな顔で、「璇、少しいいか……」などと切り出すものだから、璇が別れの気配をいち早く察し、さっと話題を変えるか、子季の気を逸らしてうやむやにしてしまうのである。
更には、「一日の終わりに、こうしてお前と過ごせることが、堪らなく幸せだ……」と、疲労の中にも一抹の爽やかさを滲ませて微笑む。
こうなると、「世話になったな。求婚は断る。じゃあこれで」とは、心が鋼ででも出来ていない限り言い出せない。
――ところで、何か話でも。
――あ、うん、また今度言うよ……。
こうして、子季は毎晩のように、「ああ……今日も言えなかった……」と煩悶しながら、柔らかい褥に潜り込むのだった。
そうこうしているうちに、子季は湯にたくさんの花びらを浮かべ、その中で手足を伸ばしてまったり浸かるという、人間の湯浴みを覚えてしまった。
川の水浴びや温泉もいいけど、これはこれで……。
初めて湯浴みをした時は、丁度璇の帰宅と重なったようで、
「湯浴みをしている最中の無防備な子季を、拐かそうとする者がいるかもしれぬだろう。いや、男は来るな! 私が番をするから全員下がれ!」
衝立の向こうから聞こえてきた璇の真剣な声に驚き、子季は湯の中で震え慄いた。
「あなた様こそ、即刻出ておいきなされ。そんなややこしいことをする賊がいるものか。せいぜい、あなた様が衝立の陰から覗いて楽しむくらいじゃろう」
呆れたような巫婆の声は、ぜいぜいと息が切れていて、走って追いかけてくる羽目になったことが、とてもよく伝わってきた。
「人を色呆け爺のように」
璇は気分を害した様子で、ハァと大きなため息をついた。
「子季がいいと言ったら見るが……」
「生娘がそんなこと言う訳なかろう! 大概にしなされ!」
こんな会話を衝立越しに聞かされた後、子季は大抵、璇のいない昼の間に湯浴みをするようになった。
湯上りには侍女たちが用意してくれた果実水で喉を潤し、人目を忍んでぶるっと体を震わせれば、髪もたちどころに乾いてしまう。
子季が少し長い距離を歩けるようになったり、問題なく湯浴みができるようになったりすると、二人はその都度、我がことのように喜んでくれた。
ずっとここで暮らせたらいいのにな……。
永逸宮でたっぷりと甘やかされている子季が、いつものように湯浴みの後、寝台の上で丸くなろうとしていると、部屋の外が俄かに騒がしくなった。
「退け」
人を人とも思わぬような声がして、見知らぬ男が部屋に押し入ってくる。
このところ、子季の部屋には予期せぬお客が続いているが、この男は何執事とは違い、まったく歓迎する気になれなかった。
「失せろ」
「で、で、ですが……」
震えながら男に反論しようとする芸欣を引き寄せ、怡若が「不心得者」と叱りつける。
「来なさい」
芸欣の腕をつかんだまま、怡若は有無を言わせず引っ張っていった。
「躾のなっていない侍女だ」
男が呆れたように吐き捨てた。
寝入りばなだった子季がぼんやりしているうちに、男はずかずかと寝台に近づき、あれよという間に子季を押し倒す。
上から子季を覗き込み、妙に暴力的な雰囲気を漂わせながら、ぽつりと呟いた。
「醜いな」
――何だお前。喉を食い破られたいか。
「こんな女を妃にとは……。母上も気が違っている」
男は大仰にため息をつき、何の前触れもなく子季の衣の衿をつかんで、ぐいと押し広げた。
――え?
胸が露わになるほどではないが、白い肌とその上を這う傷痕が、明るい午後の日差しの下に晒された。
「……やはり、体も醜いか」
騙されて不良品をつかまされた、客のような言い草だった。
男は大層体格が良く、美男子と言ってもいい顔立ちだったが、ぞっとするほど酷薄な目をしていた。
ふん……そうか、お前が。
怡若と芸欣から多少のことは聞いている。自己紹介などされなくても、この男が誰なのか、容易に想像がついた。
手が付けられない乱暴者で、性格は傲岸不遜、冷酷さにおいて並ぶ者なし。
だが、父王からの寵愛、母たる現王后の後ろ盾、そして機を見るに敏な宮廷人たちからの圧倒的な支持を受け、誰も彼には逆らえないのだ、と。
噂に違わぬ男だな。――権公子。
子季が一向に動じないので、権は調子が狂ったようだった。
「人の言葉が分からぬのか」
これは驚いた。お前の方がよほど道理を知らぬ獣ではないか。
言葉を交わしてやるのも億劫で、子季は目で「退け」と促した。
水面に踊る光のような、金が一瞬、きらめいて撥ねつける。
権は軽く息をのんだ。
「ほう……」
権は子季の上に覆いかぶさったまま、子季の頬に手を伸ばした。
「だが、この目の色は悪くない――」
子季の全身が粟立った。
――嫌!
得体の知れぬ醜悪な獣に、ざらりと体を暴かれるような。
九尾の太守の孫娘を押し倒し、ぎらぎらした目で眺め回す者など、今までただの一人もいなかったから、それは未知の恐怖だった。
『――璇! 璇!』
「お前……声まで醜いのか!」
権は鼻白んだ様子だったが、子季の体の上から退こうとはしない。
『璇! 璇!』
たかが人間の男一人、吹き飛ばして壁に打ちつけることなど造作もないはずなのに、そんなこともすっかり頭から抜け落ちてしまうほど、子季は動揺していた。
恐慌をきたした子季が、牙もない人間の口をカッと開こうとした時、抑制の効いた低い男の声がした。
「権公子、主の客人から離れてください」




