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極甘~ガワだけ爽やかな不遇の公子、ずっと心密かに思い続けた初恋の人を野で拾い、連れ帰って偏(ひとえ)に愛を注ぐこと~  作者: 初春餅


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20.予期せぬ訪問者(後)

「お嬢様のご状況でしたら、先方もおおむねご承知です」

『なんで?』

「当然、お報せしておりますから。婚礼の夜に花嫁が到着しなければ、あちらも何事かと思うでしょう」

『そうか……』

「李録事も大層ご心配なさって、すぐに膏薬を送ってくださいましたよ。帰ったら塗りましょうね」

『へえ……? お優しい方だな……?』


 子季の反応があまりにも薄ぼんやりしているので、何執事の眉間の古傷が危うくブッと開きそうになった。


「何を言っているのです。李録事はお嬢様のご夫君なのですよ。夫が妻を気遣うのは当たり前のことでしょう」


 ――夫?


 虚を衝かれたように、子季がぽかんと何執事を見た。


「お嬢様? ちょっと、本当に何を今更……」

『ま、待って。先方から破談の申し入れは?』

「いいえ。何故です」

『だって、この顔を見て』

「いつも通り、愛らしくていらっしゃいます」

『あーもう、りゅうを呼んで』


 目の前の事実をありのまま、はっきりと口にしてくれる侍女の琉がいないと、何執事では話にならなかった。先方が一体何を概ねご承知なのか知らないが、何執事がこの調子では絶対に正しく伝わっていない。


『先方からは言い出しにくかろう。事情を説明して、こちらからご辞退を』

「お嬢様!」


 ――お前はこの度のことで、顔と体に痕が残っただろう。

 ――並の男には耐えられまい。


 言い方の是非は措くとして、璇の言うことももっともだと思っていた。自分で言うのも憚られるが、九尾の狐の娘と言えば絶世の美女の代名詞、待たせに待たせた初顔合わせでがっかりさせるのも気の毒である。


 何執事が居たたまれぬ様子で目頭を押さえた。


「お迎えが遅れたことで、お嬢様には要らぬ心労をおかけしてしまったようです。帰りましょう。山へ帰りましょう」


 寝台の前に立膝をついていた何執事が、その姿勢のままくるっと子季に背を向けた。


「――さ、じいやの背にお乗りなさい」

『えっ。いいよ。そんなの』

「ですが、ご自分では動けぬでしょう」

『い、いや、休み休みなら、動けぬこともないし』

「いけません。じいやの背に乗るのです」

『ま、ま、待って』


 子季は顔を真っ赤にして、声を振り絞った。


『璇と約束したことがあって、それを果たすまでは帰れない』


 嘘ではないが、正直な物言いでもなかった。


 ――宮の居心地はどうだ。


 子季を見つめる涼やかな目に、得も言われぬ甘さが混じるのを、璇はもう隠そうともしなかった。


 ――あ、うん。とてもいい……。

 ――そうか。


 皆に良くしてもらい、美味しいものをたらふく食べさせてもらっているうちに、どんどん出ていきたくなくなってしまっている。


 子季の尾を優しく撫でながら、「こんな話を知っているか」と璇が語ったところによると、古代には、九尾の狐を妻とした人間の王がいたという。「二人は終生、仲睦まじかったそうだ」と璇は涼やかな目を細め、「人と瑞獣でも、こういうことが起こり得るのだな」と噛みしめるように言っていた。


 そんな前例があるのなら、と心が動きそうになったが、子季は危ういところで踏み止まった。そもそも、璇は子季が九尾であることを知らない。


 何気ない風を装って「実はわたしも九尾なんだけど」と切り出し、「それでもいいか」と尋ねたとして、否と言われたらどうすればいいのか。


 それでもいい、と言ってくれる気がしないでもないけれど……。


 不慣れな子季の気持ちがゆっくりと熟すより先に、求婚が来てしまったせいで、子季は「好きだけど、でも」という曰く言い難い状況に陥っていた。


 友と呼んでくれた時は舞い上がってしまったし、子季にとって璇ははっきりと特別な存在だったが、自分の正体を明かしてまで、彼の覚悟を問いたいと思うほど、ほんものの「好き」かどうかまではまだよく分からなかった。


 それなのに、わたしはずるずると返事を先延ばしにして、いつまでも璇のそばにいようとしている……。


「命の恩人とのお約束なら、無下にもできませぬな」と、何執事はあっさりと引き下がった。


『うん……。でも、それほど難しい約束じゃない。二、三日中には戻るよ』


 子季は遂に期限を切った。もしこの気持ちがそういう「好き」だったとしても、所詮は人と獣、きっとうまくいかない。別れは早い方がいい。古代の王と九尾の娘の婚姻は、ごく稀に起こる幸福な例外に過ぎない。


 璇に相応しいのは、彼を優しく支え、彼の立場を盤石なものに出来る、気立ても家柄も良い人間の娘に決まっていた。


「お帰りの際はお呼びください。お迎えにあがりますから」

『うん。ありがとう』


 みるみる真っ赤になってゆく目を隠すように、子季は殊更、にこにこと目を細めた。


「差し当たって、これまでの世話に対する謝礼をしなくてはなりませんな」

『璇は梨酒と竜胆が好きだって』

「承知しました」


 何執事は頼もしく頷くと、人の姿のまま扉口から堂々と出ていった。


 え? そっちから? と子季は思ったが、何も言わず見送る。


 部屋の外に出た何執事は、宮にずっと仕えている使用人の一人のような顔をして、悠々と廊下を歩いた。


 大切なお嬢様をお預けしている家である。この機に中を確認しておくに越したことはない。


 山では滅多にお目に掛かれぬような、繊細な調度の数々に目を細めつつ、これからちょっと主の用でお遣いへ、といった風情で大胆にも正面出入り口へ向かっていると、意外な人物に出くわした。


大人たいじん

「これは、じょ大人たいじん


 何執事の六博りくはく仲間の徐大人であった。


 六博という高度に知的な盤上遊戯は、本来は子供向けの遊びではない。純然たる大人の為の遊戯であり、負けた方には罰杯もある。


 二人は恭しく礼を交わし、「では」などと何事もなくすれ違った。


 ――私がお仕えする若君は、眉目秀麗、才華爛発、威厳と風格を兼ね備えた、まことに立派な若者で。

 ――うちのお嬢様とて、四海に敵うものなき才色兼備、物腰は楚々とお淑やかで、性格も素晴らしく。


 酒に酔うと、互いにお仕えしている若君とお嬢様の自慢合戦になり、「では、お似合いでしょうから娶せましょう」などと言っては「まあ無理であろう」とどちらもこっそり苦笑するのが常だった。

 徐大人ことじょ山河さんがは、茱国太卜令の職にある人で、彼の言う若君とは、茱国第一公子のことであり、一方、遷山の太守に仕える安恭あんきょうの言うお嬢様とは、九尾の太守の孫娘であった。太卜令は本当のことしか言っていないが、何執事はかなり話を盛っている。


 何執事が怪しい侵入者であることは即座に理解したであろうに、徐大人は人を呼ぼうともせず、悠然と歩き去っていく。


 何執事はほろ苦い笑みをこぼした。


 長年の友諠に免じて、目こぼされたに違いなかった。


 ――気持ちの良い御仁であったが、こうなった以上、二度とお目にかかることは出来まい。


 正面から外に出た何執事は、気を取り直すようにさっと手を一振りした。


 今宵の月明かりを映したように、永逸宮の庭が一面の青に染まる。


 翌朝、異変に気づいたのは怡若いじゃくだった。


「ああっ。これは何としたこと? 条件が悪くて、竜胆が育たなかったはずの永逸宮のお庭に、何故か一面の竜胆が!」


 驚きのあまり、怡若の口調も説明的になる。


 その翌朝には、梨酒の入った大きな甕と、うず高く盛られた大玉の梨が、薄青の庭にいつの間にか届けられていた。


「まあ、なんて大振りで瑞々しい梨」

「これも梨酒にしてくれようのう」


 芸欣げいきんと巫婆の声もほくほくと華やぐ。


 数日のうちに、永逸宮は屋根と言わず塀と言わず、蔦のように絡まる薄青に優しく包み込まれていた。

 時折、宮の周辺にだけさっと黄金の雨が降り、一面に咲きこぼれる竜胆を潤す。


 そうだった、じいやは派手好みなんだった……。


 永逸宮に訪れる瑞兆の数々を、興奮気味の芸欣から聞かされれる度、子季は「やり過ぎだ」と頭を抱えた。


 ここまで来ると、嫌でも人の口の端に上る。


 宮中を駆け巡る噂は人の口を介する度、「届けられた梨酒を飲めば、ひととき仙境に遊べるそうだ」などと怪しげな尾ひれがついた。そこへ太卜令が「これまでの璇公子の善行を、天が寿いでいるのでしょう」と、実に意味深なことを言ったものだから、今まで権公子派の急先鋒と目されていた者たちから順に浮足立つ。


 成程……これはただのお礼じゃなくて、璇の即位の為の布石なのか……。


 永逸宮の柔らかい褥の上で、九尾の娘が「さすがじいや」と首を振り、遥か遠い空の下、眉間に古傷のある天狐がのんびりと欠伸を噛み殺している頃、花溢れる美しい晩翠宮では、女主人が顔を強張らせ、腹心の侍女と無言で頷き合っていた。


 こちらは何執事が意図したことではなかったが、晩翠宮の主とその忠実な侍女長が、永逸宮の客人の正体について確信を得てしまったことも、また当然の帰結であった。

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