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2.輿入れ

 ――結局、一緒にお茶を飲み損ねてしまったな……。


 もう八年も前のことなのに、今でもふと思い出す。

 毅然とした涼やかな目や、物怖じもせず子季に触れた、あのか細い手のことを。


「お嬢様、じっとしていてくださいませ」

「うん」


 元気でやっているだろうか、もう誰にも殺されたりしていないだろうか、などと考えているうちに、頭がかしいでいたらしい。子季の額に紅で花の紋様を描いていた侍女のりゅうにぴしゃりと叱られた。


「まったく、幾つになっても落ち着きのない」


 琉の声には湿っぽくなるのを誤魔化そうとする気配があった。それに気づいてしまったせいか、子季の鼻の奥もつんと痛くなる。彼女にこうしてお化粧をしてもらうのも、思えばこれが最後であった。

 琉が子季の唇に紅を差して、ぽつりと言った。


「幸せになるんですよ」

「うん」


 たっぷりとした大袖の方領ほうりょうも、尾のように長く裾をひく裳も、真珠や宝玉を縫い取った腰帯も、今宵すべてが赤尽くしの子季が、いつもの調子で軽く頷いた。

 赤は婚礼の色である。

 子季は今宵、泰山宮の録事に嫁ぐ。


 琉は「大丈夫かしら」とわざわざ口に出して言い、不安そうに頭を振った。一体何を心配しているのだろう。「野原を駆け回っている間に、命をひとつ失っていた」と言い捨ててさっと逃げた時も、「んまあ」で済ませた人なのに。


 それで済んだと思っているのは子季だけだということを、当の子季は知らなかった。


 九尾の子供の「悪戯」は、何故か泰山府君の知るところとなり、呼び出されたのは子季の祖父だった。

 冷や汗をだらだらと流している祖父に、府君は子季の名を尋ね、「なかなか豪快なやつめ」と、地が割れるような声で哄笑した。


 その時はそれで終わっていたのだが、府君はずっと、子季のことを心の片隅に留めていたらしい。子季が年頃になると、「いいのがいるから、めあわせぬか」と縁談を持ちかけてきた。


「しっかりした方に嫁げば、あの子も落ち着くだろう」と関係者全員が乗り気になって、話はとんとん拍子に進んだのだが、その辺りの事情は一切子季には知らされず、ただ「お相手の方は録事の中でも抜きん出たお方で、いずれは泰山令とも言われている。これ以上の良縁はないから、心してお受けするように」とだけ伝えられた。


 身支度を整え、祖先の廟に挨拶を済ませた子季は、琉に手を取られてきざはしを下りる。かがり火のように灯された狐火も、今宵ばかりは花の形である。結い上げられた子季の髪を飾る、幾つもの金釵や金歩揺、着物の赤に浮き上がる金糸の刺繍が、火に照らされて妖しく輝いた。

 赤を彩るのは金である。

 十八になった子季の美貌を、今宵の為の特別な赤と金が引き立てた。


「これ。狐の娘らしく、ツンとお澄まししていなさい」

「え、あ、うん。はい」


 結局、最後までお小言をもらった。


 道中を差配する執事にたすけられ、子季はかごへ乗り込んだ。花の形の狐火が、夜道と一行を仄かに照らす。滑るようにゆるゆると、一行は泰山へ向けて出立した。


 自分の足で駆けてゆく方が余程早いし楽なのだが、形式だからそうもいかない。子季は轎の中ですることもなく、手持ち無沙汰に扇を弄んだ。


 見事な九つの房を持つ扇は、子季の尾が変じたものである。人の姿を取る時はいつも、尾は扇となってどこからともなく現れる。手元に来た後はもう、そばを離れることはないから、「なくさないよう気をつけなさい」とは、いくら子季でも言われたことがない。九つの房のうち、一つは夜空に透き通るような銀の色、残りの八つは子季の体と同じ、まっさらな雪の色だった。尾とは違って、残っている命と失った命で色が違った。


 銀に変じた一房を撫で、子季は花嫁にそぐわぬ憂い顔でため息をついた。


 ――穏やかな方だといいのだが。


 自身の評判を棚に上げ、辣腕だという花婿に怯えていた。


 自分が嫁ぐ相手のことを、子季はほとんど知らない。


 名は英寧えいねい、年は子季より十歳上の二十八歳、録事として泰山宮に召されたのは八年前――知っていることは本当にそれで全部である。

 皆にとってはそれで十分だったようで、「お嬢様との年の差も、宮でのご経験年数も、なんと計ったような頃合いか」だの、「宮仕え八年目にして、既に泰山府君の信頼も厚いとは。なんという逸材」だのと口々に誉めそやし、当時は山全体がこんこんという歓声で賑わっていた。


 ――李録事の初出仕は八年前か……。


 竜胆の花ほころぶ秋の野原で、子季が人間の子供と出会ったのも丁度その頃だった。


 今思えば、あの子は男だったのか、女だったのか。男にしては綺麗過ぎたから、やはり女だっただろうか。無事に生き永らえていれば、今頃は随分と美しい娘になっていることだろう。

 そこまで考え、子季ははっとする。もしかして、もう嫁いでいるのか。嫁ぎ先で苛められたりしていないだろうか。


 眼裏まなうらに鮮やかに蘇るのは、強い意思を持った、けれど澄み渡るように涼やかなあの目だった。


 子季はいかにも狐の娘らしく、ふっと妖艶に微笑んだ。


 ――そうだな。きっとお前なら、どんな夫の許に嫁がされようと、強く生きているに違いない。


「……わたしもお前を見習うか」


 子季が誰にともなくそう呟いた時、乗っていた轎ががたん、と大きく揺れた。

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