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極甘~ガワだけ爽やかな不遇の公子、ずっと心密かに思い続けた初恋の人を野で拾い、連れ帰って偏(ひとえ)に愛を注ぐこと~  作者: 初春餅


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19.予期せぬ訪問者(前)

 戦上手で知られる主が、密かに城塞のごとく守りを固めているはずの永逸宮で、ある夜、見慣れぬ形の影が蠢いた。


 影は低く頭を下げ、とっとっと軽快に子季の部屋へ四ツ足を踏み入れる。流れるようにくるりと一回転すると、執事の姿になった。


「お嬢様、お嬢様」


 何執事は気持ちよさそうに寝入っている子季を控えめに揺すった。


『うーん……ん?』

「お嬢様!」

『じいや!』


 薄暗がりの中で、二人は声を殺してわっと手を取り合った。


『ああ、じいや、じいや』

「おいたわしや、そのようなお声に」

『じいや、じぃやぁ』

「これ。お嬢様はもう子供ではないのですから、私のことはツンとお澄ましして『何執事』とお呼びなされ」

『皆は? 皆は無事?』

「無事でございます。傷を負った者たちも皆、順調に回復しております」

『そう。よかった……』


 子季は心底ほっとしたように眦を拭った。


 何執事は子季から体を離し、おもむろに子季を見据えた。


『じいや……?』


 明り取りの窓から差し込む仄かな月の光が、厳めしい顔つきと眉間の古傷を蕭々(しょうしょう)と照らしている。


 ねえ、と呼んでも、何執事はうんともすんとも言わなかった。


 子季は叱られた子供のようにしゅんとした。


『分かったよ……もうあんなことはしない……』


 子供だから、しないと言ってもまたするかもしれない。その辺りは何執事にも分かっていたが、まだ若く、命知らずな九尾には、その都度釘を刺しておくことが肝要だった。己の命を奔流に変え、自在に操るなど、九尾の長老たる子季の祖父にも出来ぬ芸当で、何執事が目に入れても痛くないお嬢様は、力が規格外な分、性分もやや規格外、他者の体に流し込めば、それは他者の命となり、限界を超えて弄べば、心臓をひとつ潰して消えると分かっていてもやる。嫁にいけば少しは落ち着くかと思ったら、未だ婚家に辿り着いていないという有り様、何執事が枕を高くして眠れる夜は、もしかしたら永遠に来ないのかもしれない。


 何執事は身を屈め、狐のしなやかさで美しく跪拝した。


「皆に代わって、お礼申し上げます」


 子季は複雑な表情で、ふん……とそっぽを向いた。


 皆を山へ帰したことに対してか。もうしないと言ったことに対してか。


しゅの公子、えんせんに命を救われた』

「存じております」


 何執事がゆったりと顔を上げて言った。


「一度、明府様とこちらに伺いました折、お嬢様が大層手厚く保護されているのを、窓から拝見いたしましたので」

『あ、一回来たんだ』


 おじい様までいらっしゃったとは。どういう風の吹き回しだろう。


 明府様、とは遷山の太守たる子季の祖父のことで、祖父が特段の事情もなく、山を空けることは滅多になかった。特段の事情というのは、例えば泰山府君からのお呼び出しなどで、子季がまだ子供だった頃にも一度、慌ただしく出ていく祖父の後ろ姿を見送ったことがある。


「明府様は茱の始祖とは旧知の間柄だそうで」と、何執事は驚くべきことを言った。


 祖父が本当に本当の子供だった頃、遷山に迷い込んできた人間の少年と、六博りくはく(双六に似た盤上遊戯)で熱い戦いを繰り広げたことがあるという。

 ツンと澄ました九尾の子供と、まっすぐな目をした人間の子供は、どちらも結構な負けず嫌いで、三日三晩、勝ったり負けたり、もう終わろうとはどちらも自分からは言い出さず、二人が重なり合うようにして眠り込んだ後、人の子の体は親元へ還った。山で行方不明になっていた子供が、いつの間にか家に戻ってぐうぐう眠っているのだから、村は大層な騒ぎになった。後に初代茱王となるえんの、子供の頃の逸話である。


 ――久しいのう、袁萸。


 祖父は璇を見て、そう呟いたという。

 あの者からは、萸と同じ匂いがする、と。


『ふうん。つまりおじい様は、懐かしい友達の子孫と旧交を温める為にわざわざ』

「何故そうなるのですか。お嬢様の御身を案じて来たに決まっているでしょう」

『眺めるだけ眺めてさっさと帰ったくせに』

「そうではありません。袁璇の天晴れな看護っぷりに明府様もいたくご満足なさり、このまましばらく厄介になるか、と」

『勝手に決めないでよ』


 とは言ったものの、あの時点ではそれが唯一にして最良の選択だったことは間違いない。

 まあいいけど、と呟いて、子季は厳かに宣言した。


『璇の即位を助け、終生彼を見守ろうと思う』

「命を救った返礼として、ですか」


 ゆったりと座り直した子季は、いかにも神獣らしく、泰然と首を傾けた。


『そうだな……璇が王の器だからだ』


 ――深手を負った者に冷たい王族など、天が許さぬ。


 当然のようにさらりと言われ、あの時は本当に驚いた。普段から血肉に刻むがごとく、そう思っていなければ、ああいう言葉は咄嗟には出てこない。この男は王だと思った。死と隣り合わせの過酷な幼年時代を送り、長じて後も散々に舐めたであろう辛苦を、恐らくは強い意志でもって、民を容れる器の広さに換えた人。いつまでも気軽に野山を駆け回り、皆がお膳立てしてくれた道筋に、安穏と従うばかりの子季とはものが違う。


「お嬢様がそうおっしゃるなら、及ばずながら私も力添えを」


 何執事は恭しくこうべを垂れた。


『本当? ありがとう』


 何執事の助力が得られるとは、これほど頼もしいことはない。

 子季はすっかり安心して、気軽に話題を変えた。


『それはそうと、わたしの嫁入りだけど、顔と体に傷を負ったことを、先方はまだ知らないだろう』

「何を今更」


 何執事はフッと失笑した。

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