18.悪童の憂鬱
池のほとりに佇む風雅な亭閣で、茱国第二公子、袁権は昼間から酒を煽っていた。
「璇め……」
吐き捨てる声に嫌悪が滲む。
二つ年上の兄のことは、昔から気に食わなかった。
権が未だ晩翠宮で母と暮らしている一方、兄は早々に自身の宮を賜り、いっぱしの主面をしている。権が未だ叶わぬ初陣もとうに済ませ、それどころか何度も戦地に赴いては、それなりの戦果を上げている。
体格でも腕力でも、何ひとつ権に敵わぬあの兄が。
それだけでも十分許し難いというのに、兄はその上、大変卑怯な性格をしていた。
一対一で正々堂々と戦えば、権は決して兄には負けぬものを、あちらはまともに組み合おうとせず、気づけば竹林や室内に誘導され、思わぬ竹のしなりやどこからか飛んでくる凳子に権がまごついている間に、容赦なく返り討ちにしてくる。時には誘導するだけしておいて、そのまま姿をくらますのだから、業腹といったらなかった。
兄は戦地での戦い方も、同じく卑怯であるらしい。奇襲夜襲は言うに及ばず、ありとあらゆる小細工を弄し、とにかく効率よく終わらせようとする。聞いた話では、恥知らずにも敵方の将と示し合わせ、碌に戦いもせず幕引きを図ることすらあるという。武勇で鳴らした茱の将がこれとは、権は祖先に申し訳が立たなかった。
訳が分からないのは、そんな兄が兵士たちから全幅の信頼を得ているらしいということだった。
皆、騙されている。あの女のような顔で「誰一人とて無駄死にはさせぬ。皆で帰ろう」などと言われ、舞い上がっているだけなのだ。
権が颯爽と初陣を果たし、武勇に優れたところを見せつければ、兄の化けの皮も一瞬で剥がれるに違いなかった。
権の初陣が叶わぬのは、母が妨害しているせいだということは分かっていた。「危ないことは璇がやればいいじゃないの」というのが母の言い分なのだが、兄より圧倒的に強い自分が、いつまでも後方で燻っているという歯痒さは、女の身には理解できまい。内から湧き上がる焦燥や鬱屈を、狩りや喧嘩や乱痴気騒ぎで発散しても、権の気は一向に晴れなかった。
「公子様、浮かぬ顔ですね」
男とも女ともつかぬ、優しい声がした。
いつの間にか権の隣に男が座っている。耳に優しい声音そのままの、しゃなりとした姿をしていて、笑うと目が糸のようになる男である。
「黄願」
一瞬、この男を知らぬと思ってしまったのは何故だろう。権はこの通り、彼の名前を知っている。
昔からつるんで遊んできた仲間の一人で、皆とは少し毛色が違うが、いつだって一緒に馬鹿をやってきた気のいい男だった。つい先日も、この男が妖狐の一行を見つけ、皆で退治としゃれこんでいる。後日、あれはもしや九尾の一行だったのではと仲間の一人が聞きつけてきて、どうしたものかと皆で額を突き合わせたが、「なに。我々が黙っていればいいだけのこと。誰にも分かりゃしませんよ」と黄願が言ったので、それで万事解決だった。
「璇のところに女がいる」
権は忌々しげに吐き捨てた。
「その女を近々、宮に引き取ると母上が」
決して人に話してはならぬと母から厳命されていたが、構うものかという気分だった。相手は昔からずっと一緒にいる黄願である。いや、本当にそうだったか? どうでもいい。今はそんなこと。
「場合によっては、その女は私の妻となるそうだ」
「あらまあ。おめでとう存じます」
「何がめでたいものか!」
こんな不愉快な話はなかった。
よりにもよって、璇のお古など。
黄願は困ったように微笑んで、
「まあまあ。王后は権公子の為にならぬことなど、何ひとつなさいませんよ」
と、優しく権を慰めた。
同じ優男でも、誰かと違って黄願は本当に好ましい。
「……王后は何故、その女を?」
「誰にも言うなよ」と念を押してから、権は声を潜めた。
「その女は九尾の姫かもしれぬそうだ」
「――ほう?」
彼にしては珍しく、驚きを含んだ声だった。
「お山にも帰らず、こんなところにいらしたか――」
「何だそれは」
「いえ、ただの戯れ歌です。お気になさらず。それより、九尾の姫と言えば瑞獣ではございませんか。古来より覇王は皆、九尾の姫との婚姻を望みこそすれ、嫌がる者などおりませんでしたが」
「お前まで年寄りじみたことを言うな。私はそういう、古くて黴臭くて、年寄りばかりが有難がっているような、胡散臭い話が何より嫌いなのだ」
年寄りどもには本当にうんざりしていた。下らない与太話を振りかざし、もっともらしい顔で講釈を垂れてくるくせに、権が少し突っ込んで訊こうものなら、「その辺りは人知を超えたお話で」などと誤魔化す。要は誰にも真偽のほどが分からぬ話を利用して、自分を賢く見せようとしているだけなのだ。
「馬鹿らしい。大体、なあ黄願」
権は誰彼構わず刺し貫く、捕食者のような目を黄願に向けた。
「先日お前が焚きつけ、我らが退治したあれは、九尾の一行だったというではないか」
体格のよい権が少し体を寄せるだけで、ほっそりとした黄願の体は権の背にすっかり隠れてしまう。
黄願は目を糸のように細めた。
「そうみたいですね」
「それなら――」
権はクッと挑発的な笑みを浮かべて黄願に顔を寄せた。
「瑞獣とやらもまったく大したことはないな! あれから二十日は経つというのに、大人しく巣穴に引っ込んだまま、我らに報復ひとつしてこぬのだから!」
口ほどにもなかった瑞獣と、煙たい年寄りたちの両方を、権はここぞとばかりに思い切り嘲笑ってやった。
ああ可笑しい。笑い過ぎて涙が出る。
黄願はしばらくの間、呆気に取られたように権を見つめていたが、やがて一緒になって笑い出した。
「公子様、私はあなたのそういうところが、本当に好きなのですよ!」
そうやって二人で愉快に笑っていると、権の気分も不思議と晴れてくる。
黄願が細い指で目元の涙を拭い、するりと立ち上がった。
「さ、いつまでも塞いでないで、ぱあっと遊びにいきましょう。皆も待っていますよ」
権は黄願が差し出す手を取った。彼の手は女のようにすべすべで、ひんやりとしている。艶めかしい唇から覗く赤い舌先が、ちろちろと二股に割れて見えた。
少々飲み過ぎてしまったようだ。酔いが回っている時は、黄願の舌がよくこんな風に見える。
「なあ、黄願」と、彼に手を引かれながら、権は甘えるように言った。
「母上に勝手に決められたことも面白くないし、獣の姫など生臭くて気位の高い女しか想像できぬし、やっぱり璇のお古というのがどうにも気に入らない」
「おやおや。本音が出ましたね」
黄願は優しく笑い、「そうは言っても、公子様」と歌うように囁いた。
「女なんて、明かりを消してしまえば皆同じではないですか!」
「まあ、そうか」と酔いの回った頭で権は納得した。




