17.求婚
寝台の縁に腰掛けて、外気に心地よく顔を晒していると、いつもより早く帰ってきた璇が軽やかに入ってきた。
「巫婆から聞いた。残りの包帯ももう少しで取れると」
うん。
――ほれ、お待ちかねの日が来たぞ。
巫婆がそう言って、左腕と、左の脇腹を覆う胴回りのもの以外、すべての包帯が取れた。
「よく頑張ったな」
何でも褒めてくれる璇が、にこにこと子季を褒めた。
『璇』
「――え?」
この時の璇の顔はちょっとした見ものだった。
久々に出た声は低く掠れていて、それはひどいものだったが、呼ばれた方は寝台に飛び乗るほどのはしゃぎようだった。
「子季、声が」
『璇』
璇はじゃれつく獣の子のように、子季のすぐそばに体を寄せ、「もう一回呼んでくれ」とねだる。
『璇』
璇はぐっと目頭を押さえた。
「お前に名を呼ばれる日が来るなんて……」
大袈裟だな、と子季は笑った。
名くらい幾らでも呼んでやる。子季の大事な公子様。
これで、お別れだ……。
子季は千々に乱れる思いを押し隠し、いかにも神獣らしく、泰然と微笑んだ。
――お前のことも、お前の子孫も、わたしがずっと見守ってやろう。七つの命がすべて尽きるまで。
子季が璇に与えることのできる、それが最上のことだった。
お前はきっと良い王になる。お前の即位を陰ながら助け、友としてお前の治世を見届けよう。お前の前に立つことは二度とないけれど、竜胆の野に佇むお前を、時々こっそり見にくるよ。
璇、今まで世話になった――と子季が厳かに言おうとした時、璇がふいと顔を背けた。
「私が迎えにいってやるまで、一人でぐずぐずと泣いていたくせに」
『な、何だ、その言い方。もう。お前なんか見守ってやらない!』
見守ることは黙っているつもりだったのに、うっかり口に出してしまった。
「見守ってくれずとも結構だ」
璇は子季をまっすぐに見つめ、子季の頬の傷痕に触れた。
「そばにいてくれ」
怖いくらいに真剣な声音だった。
愛を乞われているようにしか見えず、子季は激しく混乱した。
璇の方は涼しい顔で、
「話が前後してしまったな。私は順を追って告げようと思っていたのに」
誰にともなく、そうぼやいた後、すっと表情を改めた。
「お前が喋れるようになったら、訊こうと思っていたことがあった」
え。なに。怖い……。
いつもの軽やかさが影を潜めている。子季は俄かに緊張した。
当然ながら山のようにあるだろう。答えられるものなら答えるが、多分ほとんどは答えられない。
「お前が身につけていた髪飾りやら玉やらだが」
璇は立ち上がり、すぐそばの棚の引き出しを開けた。
「ひとまずここに保管していたのだが、いつの間にか、すべて木の葉となっていてな」
貴重なものは山へ返ったのだろう。幽界のものが主の手を離れ、明界にずっと留まっていたら、そうなるようまじないがかかっている。だが、それを説明することはできないし、どうやって誤魔化したらいいのかも分からない。
「ただひとつ、残ったのはこれだけだった」
そう言って、振り返った璇の手元には、九つの房の扇があった。
あ、と思わず声が漏れる。いつまで経ってもそばにやってこないから、もしや焼けちぎれてしまったのではと密かに不安になっていたのだった。こんなにすぐそばにあったとは。
璇が子季の隣に戻り、何気なく扇の房を撫ぜた。
子季がすうっと目を細める。なんと上手に撫でるのだろう。寝台の上で膝を抱え、そのままうっとりと撫でられていると、璇の手が急に止まった。なんで? と目を上げると、子季を凝視している璇と目が合った。
「なあ、これ……私がもらってもよいか……?」
『お前は自分の体の一部を、おいそれと人にくれてやるのか!』
「す、すまない、そんな大切なものだとは」
神妙に差し出された扇を、子季は我が子のように受け取った。
さっさっと毛づくろいしながら点検する。扇の九つの房のうち、二房は夜空に透き通るような銀の色、六房はまっさらな雪の色だった。ここまではいいとして、間にある一房は何だろう。六房と同じ白い地ながら、茶色の斑が点々と入っている。これはもしや、火傷の痕なのだろうか。
子季はふっと微笑んだ。
そうか。これが今のわたしの生なのか。
璇が救ってくれた命が、傷を負ってなお、逞しく生きていた。
子季が満足げに今生の一房を撫でていると、
「それで、訊きたいことと言うのは」
ああ、そうだった。
「お前が着ていた衣だが、治療の為に巫婆がやむなく鋏を入れた。もう直せぬ、と思う」
『構わない。その節は本当にありがとう』
命の恩人たちに、よもや贖えなどと言うつもりはなかった。
先程から、璇は子季があの夜身につけていたものについて、随分気にしてくれているようだが――。
璇が子季の体の横に手をついた。
「あれは花嫁衣裳だな」
『う、うん』
璇は美しい眉を寄せ、じっと子季を見た。
「誰に嫁ぐつもりだったのだ」
『ええ……?』
なじるように言われても、そもそも璇とは何かを言い交した仲でもない。
『い、家が決めた相手だ。遠い国の、宮廷に仕える方で……』
「好き合っているのか」
『会ったこともない』
家が決めたと今言っただろう、と子季が困ったように繰り返すと、璇は少し落ち着きを取り戻したようだった。
「そうか。事情は分かった」
子季がほっとしたのも束の間、璇は「子季、怒るなよ」と前置きして、「お前はこの度のことで、顔と体に痕が残っただろう。そのせいで破談になるのではないか」と、普通の神経の持ち主なら、まず口には出さないようなことをさらっと口にした。
『そうかもな。その時はその時だ』
「きっとそうなる。並の男には耐えられまい」
『ひどいことを……』
「まったくだ。世の大半の男というものは……」
『ひどいのはお前の言い草だ!』
怒るなよと言われたが、これはもう怒っていいのではないか。
璇が慌てて体ごと子季の方を向いた。
「ち、違う。私が言いたいのは……その、つまり……そうなったら……私の許へ、来てはくれまいか」
最後だけはきっぱりと言い切って、璇は綺麗な顔を赤く染めた。
しん、と静まり返った室内で、子季の顔も遅れて赤くなる。
『え……そ、それって、そういうこと? だよね?』
「そういうことだ」
『え、で、でも。なんで』
「なんで……?」
不思議そうに尋ね返された。
「一目見た瞬間、お前だと分かった」
手にした扇が危うく尾に戻りそうになった。
「子季は私に娶られるのは嫌か」
『い、い、嫌っていうか、璇こそ気にならないのか。わたしの傷痕は――』
「ならない」
子季は獣の素早さで顔を背けた。
尋ねる前から、きっと答えは分かっていた。
璇は優しく子季の手を取った。
「私は本気だ。舅殿に三つの難題を突き付けられても、すべて解いてみせるからな」
『ふうん……?』
璇が何を言っているのか、子季にはよく分からなかった。これが人間の世界において、それなりに権威ある文献に記されている、幽界の住人への求婚作法だとどうして子季が知っているだろう。
人間の婚姻って、すごく面倒なんだな……と子季が同情していると、璇が子季の手をぽんぽんと撫でた。
「急に言われて、お前も驚いたと思う。返事は急がぬから、ゆっくり考えてくれ」
『う、うん』
璇が綺麗な所作ですっと立ち上がった。
「無論、断るのもお前の自由だ。だが、返事を聞かせてくれるまでは、ここを出ていったりしないでほしい」
それはそうだ、と子季は思った。返事もせずに出ていくなんて、そんな誠意のないこと。
分かった、と告げると、璇はぎこちない笑みを浮かべ、「では、ゆっくり休め」と言って扉口へ向かった。
扉の前で立ち止まり、振り返ることなくぽつりと言う。
「よろしく頼む」
『あ、うん、はい』
璇はそのまま、ふいと出ていった。
ほどなくして、巫婆の宣言通り、子季の包帯はすべて取れたが、子季はぼんやりと赤い顔をして、まだ永逸宮に留まっていた。
璇は子季から扇をもらうことは出来なかったが、子季の部屋を訪れる度、ふくふくとした見事な房を撫でることはいつでも許された。




