16.花ニ在リテ
「侍女の仕業ってことになってますけど、あれは絶対に王后の指示ですよね」
「それはそうでしょ。やっちゃったね。焦りが出たのよ」
情報通に戻ったらしい二人が何やら語り始めたが、子季はそれどころではない。
ね、ねえ、璇が蠱毒に侵されたというのは――。
「ああ、それは――八年前のことです。公子がまだ晩翠宮で、王后に養育されていた頃、蠱毒を用いられてあわやという事態に」
八年前、と子季は繰り返した。
丁度その頃、子季も蠱毒に侵された子供に会ったことがある。
一面に咲きこぼれる薄青の竜胆が、柔らかな秋の日差しを受けて、とろりと甘い午睡の褥を作っていた頃。
それって、もしかして、丁度今くらいの時期だった……?
「え? さあ、どうでしょうか。ええと……」
「そうじゃ。よく分かったの」
ああ、と子季は震える手で自分の体を抱きしめた。
まさか。そんなはずはない。
だってあの子は女の子のようだったし、子季より年上には見えなかった。
――お小さい頃の公子は、随分と美少女だったようです。
――実に貧相なちびじゃった。とてもその年頃の子供とは思えぬほど。
「娘子!」
今にも崩れ落ちそうになる子季を、立ち上がった怡若と芸欣が前後から支えた。
八年も前に、たった一度会っただけ。
ただそれだけの子供の顔を、同じく子供だった子季が、はっきりと憶えている訳ではない。
たとえ憶えていたとしても、子供の頃の面差しなど、八年も経てば変わってしまっているだろう。
だけどあの目は。
子季をまっすぐに見つめた、あの毅然とした涼やかな目は。
子季の動揺をどう取ったか、怡若と芸欣が必死になって前後から子季を慰めた。
「娘子、大丈夫ですよ。公子はこれこの通り、今もぴんぴんしております」
「そうですよ。何しろここにいる巫婆が、蠱の奴めをしっかと追い払ってくれたのですから!」
あ……。
そうか、と急に頭が冷静になった。
巫婆が呼ばれたというのはそういうことだ。
じゃあ、違う。璇はあの時の子ではない。
それ以外のことがどれほど似通っていようと、そこが違えば、璇は決してあの子ではあり得なかった。
「今の公子には巫婆がついております。だからどうかご安心ください」
子季は呆然と頷いた。
ああ、驚いた……。それなら、あの子は一体誰だったのだろう。一度璇だと思ってしまえば、もう璇としか思えないのだが。だってあんなに涼やかな目をした美少女なんて、そうそういるはずが――あ。
子季ははたと思い当たった。
恐らくは霓にいるであろう、璇の従姉妹の誰かなのだ。
ふ、ふ、と気の抜けた笑みが漏れた。
まったく、人間の業の何と深いこと――あっちでもこっちでも子供に蠱毒を用いるなんて、恥を知れ。
正面にいる怡若が屈み込み、優しく子季の手を包んだ。
「公子は一命を取り留めて以来、少しお変わりになったそうです。それまでは人になつかぬ獣のようだったのが、それ以降は時折、何とも言えぬ柔らかい表情をなさるようになったとか」
「やっぱりそういう目に遭うと、人って変わるものなんですかねえ」
芸欣も後ろからしみじみそう言って、思い出したように付け加えた。
「そうそう! 急に庭いじりにも目覚めたんですよね」
「あれはそういうのではなかろう」
「そうよ、芸欣。あれは……」
怡若が何か言いかけて止め、「娘子はご存知ありませんでしたね」と苦笑交じりに説明した。
「何を思い立ったか、永逸宮のお庭一面に竜胆をお植えになったのです。それも手ずから、黙々と」
へえ、竜胆を……。
子季の故郷の山にあるお気に入りの場所も、秋になると一面、竜胆の薄青に染まる。
「でも条件が悪かったのか、うまく育たなかったようで。公子はそれでも諦めず、とうとう王宮の一角を占領して、それは見事な竜胆の庭を造っておしまいになりました」
「本当に、一面全部竜胆です。娘子も歩けるようになったら、連れていってもらうといいですよ。すぐ近くですから」
うん、と子季は二人に挟まれたまま、こくりと頷いた。
「それで、庭いじりじゃないのなら、結局何だったんですか?」
「さあのう。子供のやることじゃ」
「庭いじり以外の何かでしょ」
「もう! 二人とも知らないんじゃないですか!」
後ろにいる芸欣の膨れっ面が見えるようで、子季がくっくっと笑った。
「でもまあ、本当に何だったんでしょうね。魏氏なんかは当時、公子は一体何を企んでいるのかと相当警戒していたようですが」
「使い方次第では、竜胆は毒にもなるからの」
「そう言えばそうでした」
「え、そういう……?」
子季の背を支えている芸欣の手が震えた。思わぬ方向に話が転がり、子季も二人の間で身を竦ませる。
「娘子、冗談ですから、そんなお顔をなさらないでください。公子は根を掘って乾燥させるどころか、花を手折ってお部屋に飾ることさえいたしませぬ。ただ、そこにあるを愛でるのみで」
そうなの? と尋ねる声に安堵が混じってしまった。
「ええ。秋になると、公子はよくそこで物思いに耽っておいでです。お一人で、何をするでもなく」
芸欣も後ろからうっとりと言い添える。
「そのお姿はあまりにも美しく、この世のものとは思えぬほどだとか」
ふうん、と子季は吐息を漏らした。
一面の竜胆の野に佇む、月のように美しい公子。
涼やかで、冷たくて、でもどこか寂しげで。
「滔々たる青に佇む公子のご様子を、或る者が歌に詠みました。やたら長いので、すべてを覚えている者はいないのですが、最後の一句だけは皆の詩心に触れたようで、誰もがよく口ずさんでおります。曰く――花ニ在リテ、君ハ何ヲ思フ、と」
花ニ在リテ、君ハ何ヲ思フ――。
薄青の中に佇む璇は、それほどまでに憂わしく、美しいのだろう。
「見てくれだけは恵まれたお方だからの」
「巫婆はもう」
幻想のような青の中で、お前は一人、何を思う――?
璇のことを知りたくて、たくさん教えてもらったはずのに、璇はますます謎めいてしまった。
奇妙なことだ……。
そっとため息をつく子季を、怡若と芸欣が微笑ましげに見守っていた。




